第10話「逃げられない甘い捕食」
皇帝の名前を口にした狩人は、そのまま恐怖で気を失い雪に突っ伏した。
静まり返った雪の森で、カルステンは速度を落とした足取りでロマンへと近づいてくる。
雪を踏みしめる重い足音が、死神の足音のようにロマンの耳に響いた。
『逃げないと、殺される』
恐怖が限界を突破し、ロマンは弾かれたように雪の上を後ずさった。
しかし、冷え切った足はもつれ、すぐに体勢を崩して座り込んでしまう。
見上げる先に立つカルステンの黄金の瞳は、底なしの沼のように深く、何の感情も読み取ることができなかった。
「俺は、公爵家の人間だ」
震える唇から、自らを断罪するための言葉がこぼれ落ちる。
せめて見苦しい命乞いだけはやめようと、ロマンは必死に声を振り絞った。
「あんたたち獣人を捕らえて、売り飛ばしている一族の息子だ。だから、殺すならひと思いにやってくれ」
目をきつく閉じ、処刑の刃が振り下ろされるのを待つ。
しかし、いつまで経っても痛みは訪れなかった。
代わりに感じたのは、顔を覆う冷たい空気を遮るような、大きく温かい熱だ。
ためらいながら目を開けると、カルステンがロマンの目の前で片膝をついていた。
彼は手袋を外した大きな手で、雪に濡れたロマンの頬を優しく包み込む。
獣のころと同じ、火傷しそうなほどに熱く、甘い香りを持った体温だった。
「どうして、私が運命の番の首を刎ねねばならないのだ」
地を這うような低い声が、静かにロマンの鼓膜を揺らす。
そこにあるのは処刑人の怒りではなく、隠しきれない深い愛情と独占欲だった。
「ば、ん?」
聞き慣れない言葉に、ロマンは呆然と問い返す。
カルステンは答える代わりに、ロマンの体を軽々と抱き上げた。
抵抗する間もなく、ロマンは分厚い胸板に隙間なく閉じ込められる。
「自分から囮になって私を逃がそうとしたとき、正気を失うかと思った」
耳元で囁かれる声には、先ほどまでの冷徹さとは無縁の、焦燥に満ちた感情がにじんでいた。
獣人にとっての運命の番という存在がどれほど魂を縛り付けるものなのか、ロマンには知る由もない。
ただ、自分を抱きしめる腕の力が痛いほどに強く、決して逃がすつもりがないことだけは理解できた。
「もう二度と、私の側から離すつもりはない。お前は、帝国の宮殿で私が守り抜く」
甘く重い宣言とともに、カルステンは雪道へと足を踏み出した。
公爵家への恐怖も、処刑される運命も、彼が放つ強烈な熱と香気の前に溶けて消えていく。
ロマンはただ震える手を皇帝の背中に回し、熱に浮かされたように身を委ねるほかなかった。




