第6話 クロッカスの腕輪
ポケットに入れたはずの無骨な銀の腕輪が床を転がっていきました。それがマルシュお兄様の靴に当たり、カランと高い音を立てて止まります。
部屋の中に訪れる長すぎる沈黙。なぜ、今、このタイミングで落ちてしまったのでしょう。物といえど、空気を読んでほしいですわ。
「セレーナ」
ぴくりとも動かなかったマルシュお兄様が、ゆっくりとそれを拾い上げました。
「これは貴様のではないな?」
わたくしが普段からアクセサリーを身につけないこと。落とした腕輪が魔力を抑えるものだということ。目ざとい彼は、言うまでもなくお気づきのようでした。
「い、いえ。これは……その、かわいいと思って、買いましたの」
「明らかにサイズが合っていないが?」
「飾っていますの。インテリアですわ」
わたくしの視線はもちろん左斜め上に固定。兄の背後から唸るような荒々しい風が見えます。風の魔法を操る彼の溢れ出す力は周囲を吹き飛ばす勢いでした。
他のアクセサリーであれば、まだ言い訳もできましたのに。我が国フロルアレオは自分の腕輪を恋人に贈りあう風習があるのです。きっとお兄様は──。
「誰から求婚されたというのだ……セレーナ!」
わたくしに恋人ができたと思っていらっしゃるー!
妹を聖女筆頭側衛官に推薦し、婚約者ができないよう画策していたチェルアルカ家次期当主の地雷を踏み抜いてしまいました。
「帰るぞ。言い訳は家で聞こう、じっくりとな」
万事休すですわ! 烈火の如くお説教されることを覚悟して目を閉じました。真っ暗になった視界の中、部屋の扉が優雅に開く音が聞こえてきます。
「ごきげんよう、チェルアルカ卿。朝から賑やかですね」
そこには神々しいまでの光を背負った聖女アルカテニ様が立っていました。アルは外面専用の微笑みを浮かべ、ゆったりとした足取りでこちらに来ます。しかし、わたくしは見逃しません。急いで着替えたがためにローブの裏表が逆になっていることを。
「あら、それは」
「……これは聖女様のものでいらっしゃいますか?」
「ええ、クロッカスの花が刻まれているでしょう」
クロッカスは聖女を象徴する花。兄の手元をじっと見つめていたアルは、急に口を手で覆い、声を詰まらせ始めました。
「これはセレーナに預けていた──私の力を封じる呪いの腕輪」
「の、呪いの!? 聖女様、左様に重要な宝飾品を我が妹に?」
「ええ。セレーナは私の苦しみを共に分かち合いたいと言ってくれて……」
その姿はマルシュお兄様の涙を誘ったようでした。感動のあまりハンカチで目元を拭っています。
演技が冴え渡っていますわ。嘘八百もここまでくると芸術と言っていいのかもしれません。彼が優雅に振る舞えば振る舞うほど扇の下で笑いを堪えなければなりませんでした。
ここで笑ってしまったら、わたくしたち二人の嘘がバレてしまう。
「貴様はそこまでしてこの国を……! 我が妹ながらその献身、言葉もない」
お兄様は腕輪を神聖な遺物のように返してくださいました。その瞳にはもはや疑念ではなく、敬意が宿っていました。我が兄ながらちょろすぎて不安になります。
「セレーナ。貴様の苦労も知らず帰宅を促した俺を許してくれ」
「いえ。わたくしの覚悟、ご理解いただけて光栄ですわ」
引きつる頬を扇で隠し、何とかやり過ごしました。ほほほと控えめに笑っていると、彼は懐から小さな箱を取り出しました。
「この菓子を渡すつもりはなかったんだが、特別だ。聖女様とともに食べるといい」
「ありがとうございます、お兄様」
「足りなければいつでも言うといい。公爵家の料理人を派遣しよう」
満足げに頷いていらっしゃると、迎えの方が来られたようでした。ようやく部屋を後にしてくれるようです。長い……長い戦いでした。
「では聖女様、妹をよろしく頼みます」
「もちろんです。セレーナと私は運命ですから」
最後に彼はわたくしの頭に軽く手を置いて、「自分を大事にしろ」と言い残し、部屋を出ていきました。はやく帰ってくださいまし、なんて思っていたのは秘密です。
廊下から足音が遠ざかると、二人揃ってその場にへなへなと崩れ落ちました。
「……もう終わりかと思いましたわ」
「あぶねぇー! 間に合ってよかったあ」
「ずっと言いたかったのですけれど、ローブが裏表逆ですわよ。アル」
「まじぃ!?」
アルは即座に聖女の仮面を剥ぎ取り、ソファに転がって大笑いしました。ああ、やっと一安心ですわ。
机の上に並べられたお菓子の数々にアルは目を輝かせています。呑気なものですわ。その姿を見ているとわたくしもお菓子を食べたい気分になってきました。
──聖女様と食べるといい。
最後にお兄様から渡された箱に手を伸ばしました。けれど、そこにお菓子はありませんでした。入っていたのは一枚の紙。魔法省の極秘印が押された通信記録の写しがありました。
「なんですの、これは……」
『第一王子ラルモヴァーロ、聖女の出生について秘密裏に調査を開始』
魔法省にいる人間しか知り得ない──おそらく職権を乱用してまで掴んだ──機密情報でした。
「へえ、そこまで嗅ぎ回ってんだ」
アルが肩越しに紙を覗き込み、なぜか愉しげに喉を鳴らしています。
「プレゼントだよ」
耳元で彼に囁かれ、ふと首元に重さを感じました。いつの間にか革紐が通されたクロッカスの腕輪がネックレスとなって掛けられていたのです。
わたくしはなぜか懐かしさを感じました。二度と外せないような、外したくないような。気のせい、なのかもしれませんが。
「俺たちのことは誰にも暴けない。だって運命なんだから、ね」




