第5話 左斜め上の目線
ガタ、と本棚が動く音がしました。ふわりと花の香りが漂い、来訪者の正体を告げます。「またか」と呆れつつ、書類を持つ手を止めました。
「扉があるのですから、そこから入っていただけませんか?」
「いいじゃん、別に。それより聞いて? これ、本当においしくないんだけど」
神殿から支給された茶菓子を頬張り、満面の笑みを浮かべる聖女──もとい、アル。もう怒る気力さえ湧いてきません。 彼はローブを乱暴に脱ぎ捨てるとソファへ飛びこみました。
「お行儀が悪いですわ。あと、わたくし仕事中ですの」
「お前の仕事は俺といることじゃん」
わたくしと彼の部屋は歩いて十歩ほどの距離にあります。近すぎて笑ってしまうほどなのに、最近は隠し通路まで見つけてここに入り浸っていらっしゃるのです。ご自分の部屋では、国を救う聖女として気を張らねばならず、疲れてしまうのでしょう。
お気持ちを理解できないわけではありませんが、わたくしにも職務があります。聖女様がどこへ行き、なにをされ、なにを召し上がったか。すべてを詳しく報告するのが聖女筆頭側衛官の仕事なのです。
「報告書とか誰が読んでんのさ」
「それは……」
確かに、アルが支給された茶菓子に文句を言い、隠れて市販のクッキーを食べていることなど知ってどうなるのでしょう……いけませんわ。文句を言っても提出期限は迫るばかり。わたくしに手を止める時間はないのです。
「暇な大人が読むのです」
「うわ、不敬罪~! 神官長に言ってやろ~」
彼が国民の敬愛を集める聖女様だと誰が信じられるでしょう。書類から目を離さずにいると、かすかな金属音が聞こえてきました。どうやらアルがアクセサリーを外しているようです。
くつろぎすぎではありませんの? ここ、わたくしの部屋ですわよね?
「たくさん装飾品をつけていますのね」
「誰かさんと違って魔力高いんでえ」
一言多いですわ、この聖女は。
この国のアクセサリーは魔力を増幅、あるいは制限するための道具です。大きすぎる魔力は術者自身を傷つけるため、彼は制限のために身につけているのでしょう。
「セレーナは全然つけてないよね」
「誰かさんと違って魔力がありませんので」
「んはは、根に持ってんじゃん」
ペンを動かすわたくしの手に、アルは自分の腕輪をはめてきました。クロッカスの花が刻まれた、銀色に輝く腕輪。大きすぎて、するりと肘まで落ちていきました。
「サイズが合ってませんわね」
「じゃあネックレスにしてつけてよ。他のアクセサリーを街に買いに行くのもよくない?」
さすがにアクセサリーを贈っていただくのは気が引けますので、遠慮しようと思います。けれど、たまの気分転換に街へ買い物へ出るのは悪くありませんわね。神殿から支給された茶菓子ではなく、薔薇のチェリータルトが食べたいものです。
書類仕事に疲れ、窓の外へ目を向けました。神殿の門をくぐる馬車には二羽の梟の紋章。あれは魔法省の──そこまで考え、ぼんやりしていると廊下から忌々しいほど正確な足音が聞こえてきました。
「まさか……アル、部屋に戻って!」
「は? なんで?」
急いでアルを隠し通路に押し込まなければ!
脱ぎ捨てられたローブも彼に投げつけます。本棚をしっかり元の位置に戻したところで、腕輪を机に置きっぱなしにしていたことに気がつきました。
とりあえずポケットへ隠し、必死に呼吸を整えます。足音がピタリと止まりました。続いて、力強いノックが三回。
「セレーナ・チェルアルカの部屋で間違いないだろうか」
「は、はい! 少々お待ちくださいませ!」
扉の向こうから聞き覚えのありすぎる声が聞こえてきます。おそるおそる開けると、目の前に立っていたのはマルシュお兄様でした。 相変わらず姿勢がよろしいですわ。高い身長も相まって威圧感しかありません。
「返事がいつもより二十三秒遅かったが。なにかあったか?」
「いえいえいえ、なにも! これっぽっちも問題ございませんわ!」
「嘘だな、視線を斜め左上に向けているときは貴様が隠しごとをしているときだ」
「どうぞ! お座りくださいませ、お兄様!」
マルシュお兄様は、手にしていたお土産である大量のお菓子を机に置くと、椅子を引いて正面に腰を下ろしました。まるで尋問を受けているような気分です。
一つひとつ丁寧に、持ってきたお菓子の種類を説明してくださるので、とにかく首を縦に振り続けました。
「先触れも出さず、すまなかったな。息災か、セレーナ」
「え、ええ。おかげさまで」
「それで? この生活はいつまで続けるつもりだ」
お兄様の声が地獄の底よりも低くなりました。吊り上がった目元は、わたくしたちが兄妹である証です。 逃れられない重圧に気圧されぬよう、眉間に力を込めました。
「聖女様をお守りしたいという志は尊い。だが、貴様は公爵家の人間であるということを忘れてはならない」
「ですが、お兄様。わたくしは……」
「戻るなら、貴様の好きな薔薇のチェリータルトを焼くように手配してやってもいい」
帰ってこい、と暗に言われているのです。言葉の端々に心配と不安が混じっています。お兄様はきっとお優しいのに、それが表情に出ることは決してありません。
淡々と、じわじわと、連れ戻すための包囲網が敷かれていきます。正論に言い返せず、わたくしはうつむいて唇を噛むばかりでした。昔から喧嘩をするといつもこうなるのです。 お兄様も気づいたのか、大きくため息をつきました。
「それほど帰りたくないと言うなら、俺にも考えがある」
「考えとは?」
「俺もこの神殿に空部屋を貸与していただく。貴様の隣は空室だろう」
そう言って、お兄様は隠し扉のある本棚に目を向けました。警備上の理由から、神殿外の者には聖女の私室がある場所は伝えられていません。だからこそ、お兄様は隣が誰の部屋かも知らずに言い出したはずですが……もしかして気づいていらっしゃる?
本棚の裏からかすかに布の音が聞こえてきます。おそらくアルが慌ててローブを着ているのでしょうが、一人では時間がかかるはず。なんとか誤魔化さなければ。
「そ、それは困りますわ!」
「なぜだ? なにか不都合なことでもあるのか?」
引き攣ったわたくしの笑顔を見て、お兄様はスッと眼鏡のブリッジを押し上げます。アルがいてくれたら、まだ言い訳もできますのに……絶体絶命ですわ!
「善は急げだ、いまから神官長に直談判に行こう」
「お待ちくださいませ!」
出ていこうとするお兄様を引き止めるため、立ち上がったときでした。焦ったわたくしがドレスの裾を翻した拍子に「それ」が落ちたのは。




