第29話 祈り
永きに渡るわたくしたちの旅の終わりは、絵の具を溶かし込んだような花々が迎えました。柔らかな香りがふわりと満ち、不自然なほど完璧に整えられた春があります。
丘を登るごとに、砂のこぼれる音がしていました。足元の花々が崩れ落ち、この箱庭が役目を終えようとしています。
隣を歩いていたイアムが足を止めました。ここで待っているから、と告げる彼女の瞳がわたくしを彼のもとへと向かわせます。
「……やっと、会えますわね」
わたくしにとっての始まりの地であり、彼が時間を止めた終わりの地。そこにアルはいました。
わたくしのよく知る「聖女アルカテニ」の姿ではない。銀の長い髪も、神聖な法衣も、慈愛に満ち溢れた笑顔も、どこにも見当たりませんでした。
そこに立っていたのは千年前のあの日、わたくしを守ろうとして泣きじゃくっていた少年。彼は神殿の水鏡で見た、頼りなげなたたずまいで微笑んでいました。
アル、と名前を呼んでも返事はなく、彼はただ、わたくしを見つめるだけです。
「わたくし、貴方に会えたら真っ先に言いたいことがありましたの」
彼の手にあるピンクダイヤモンドの指輪。これが千年に渡る彼の枷になってしまうとは思いもしませんでした。わたくしはアルの手のひらに、自分の手を重ねます
「一人にしてしまって、ごめんなさい」
触れ合った肌から彼の寂しさがわたくしに流れ込んできます。寂しさに殺されないよう耐えながら、アルは永遠に繰り返される同じ今日を過ごしてきた。
壊してしまいそうなのに、決して逃すまいとアルはわたくしの手を握り返します。彼はまだ必死に箱庭を作り続けようともがいている。だからわたくしは首を横に振ります。
「これは貴方を縛る鎖ではないの」
指輪に触れたまま、わたくしは祈りました。かつての聖女の魔力はもうありません。けれど胸の奥で燃えるこの想いだけは、疑いようもなく本物です。
千年前、冷たくなっていく体で最後に伝えたかったわたくしの想い。この胸の温もりに乗せて、どうかアルに伝わって──!
「この指輪は貴方の傍にあり続けるという、わたくしの誓いだったの」
「そうだよ、セレーナが言ったんじゃん……ずっと一緒だって。だから俺は箱庭を作った!」
わたくしをなじる声はひどく幼く、長く堰き止めていた孤独が決壊していました。
見上げれば空がぱきりと音を立てて割れていきます。世界が彼の絶望に呼応して悲鳴を上げていました。
「そうね。たとえ作り物の記憶でも、偽物のフロルアレオでも、アルと過ごした時間はとっても楽しかった。でも」
離れていこうとする彼に向かって、わたくしは一歩踏み出しました。足元の花弁が突風に舞い上がり、視界を鮮やかな色で塗りつぶしていきます。
「もう、おしまい」
アルは力なく膝をつき、迷子になってしまった子どもの目でわたくしを見上げました。彼の頬を伝った涙は、光の粒となって宙を舞います。
「約束したのに……っ、うそつき。セレーナのうそつき!」
「アル、聞いて? わたくしが最期に伝えたかった約束を」
彼の嗚咽が崩壊していく箱庭に響き渡ります。千年分の重さを刻んだ彼の背中に、わたくしは腕を回しました。
「わたくし、クッキーが食べたい」
わたくしに何を言われたのか分かっていない様子のアル。抱きしめる腕の力を強めて、わたくしは高らかに謳いました。
「貴方と、とっても甘いクッキーを食べたい。貴方にキスをして、また明日って言われたい。偽物じゃない、本物の花が咲き誇るフロルアレオで!」
どうか届いて。この約束がわたくしたちの明日を夢見させる希望となってくれますように。
「また倒れるの嫌なんだけど」
アルの唇から、ようやく小さな笑みがこぼれます。彼はわたくしの祈りに応えて、背中に手を回してくれました
「まあ! あの時は貴方とイアムが無茶をしたせいでしょう?」
二人で穏やかな時を過ごしていると、遠くから見守っていたイアムが近づいてきました。
「再会の約束はできたの? 箱庭の聖女サマ」
「そんな都合のいい話、ないよ」
「あるわ。あたしを誰だと思ってんの? 聖女イアム・フォルカンティよ」
イアムは迷いなくレイピアを構えました。その切先がもう揺れることはありません。
終わりが来ました。けれど同時に、これが本当の始まりなのかもしれません。彼女の覚悟を受け入れる準備を整えて、わたくしは目を閉じます。
「この剣にはセレーナの力も宿ってる。二倍になった聖女の祈りが、たかが千年の呪いに負けるわけないじゃない!」
彼女のレイピアはわたくしを貫きませんでした。わたくしの影に、楔を打つように剣を突き立てたのです。ツィニカの悲鳴が遠くで聞こえたような気がしました。
イアムが貫いた影から白い光が吹き出します。世界は震え、眩しすぎる光が辺りに広がっていきました。
「二人とも……またね」
足元から地面が消え、体が投げ出されます。イアムの気配、崩れた花畑の残骸、それら何もかもが遠ざかっていきました。
♢♢♢
アルの体温がまだわたくしの傍に残り続けていました。
「セレーナ、愛してる」
「あら、わたくしのほうが愛していますわ」
意識が白く溶けていくなかで、わたくしは笑いを堪えることができませんでした。彼の底のない執着などすべて飲み込んでみせますわ。
「だってどんな姿になったって、記憶を変えられたって。わたくしはアルを千年間ずーっと見つけてきたんですもの!」
世界からあらゆる色が失われ、すべてが白となっていきます。わたくしの唇には、アルのぬくもりだけが残っていました。




