第30話 また明日
セレナーディと呼ばれて、わたくしは思いきり眉をひそめました。慌ててお兄様が「セレーナ」といつもの愛称で呼び直します。
「フロルアレオはね、かつては死と厄災の国って呼ばれていたんだよ」
お兄様がしたり顔で披露する昔話を、わたくしは半分も聞いていません。歴史は苦手なので覚える気もありませんわ。
目的地に着いて馬車の扉が開くと、甘く濃密な花の香りが流れ込んできました。深く吸えば息が詰まりそうなほどです。色とりどりの花弁が、この国の人々を祝福するように空を漂うばかりでした。
「美しいですわ、お兄様。この花たちをご覧くださいませ」
「セレーナ、離れるなよ。迷子になったらお父様もお母様も心配するだろ」
心配するのは過保護なお兄様だけですわ、と聞き流します。わたくしたちが訪れたのは、世界最大と言われるフロルアレオ植物園。なんだか落ち着きませんわ。
初めて踏み入るはずの場所なのに気づけば足が角を曲がり、どこにどんな花が咲いているのか体が先に思い出している。そんな感覚がありました。
「ねえ、お兄様。あそこのお店に寄ってもよろしいかしら」
「お菓子か? 少しだけだぞ」
人だかりのできた店先で、わたくしは棚の隅に誰の目にも留まらずに佇んでいるクッキー缶を見つけました。クロッカスの花があしらわれた、なんとも可愛らしい缶ですわ!
「これ、くださいな」
受け取った缶が指先で熱を持ちます。そういえば、わたくし誰かとクッキーを食べる約束をしていなかったかしら。
「待っているはずだわ」
「誰が?」
お兄様の問いに、わたくしは答えることができませんでした。甘いお菓子が好きな、誰か。いったい、それは誰なの?
このクッキーを色とりどりの花が咲く丘の上で食べたい。根拠など持ちようのない衝動が、わたくしの足を動かします。
「セレーナ? おい、どこ行くんだ!」
お兄様の制止など聞かず、わたくしはすでに駆け出していました。足にまとわりつくドレスの裾を蹴り上げます。迷路のような庭園の奥から差し込む光がわたくしを呼んでいました。
「きゃあっ」
足がもつれ、ぐらりと天地が混ざります。湿った土の匂い。勢いのまま駆け込んだ先にあったのは古びた石造りの一画でした。その中央に彼女がいたのです。
「……イアム?」
唇が知らないはずの名をなぞります。一振りの剣を掲げ、真っ直ぐに空を見上げる少女の銅像。台座には「明日を託された者」と刻まれていました。
その表情にあるのは慈愛よりもむしろ揺るぎない意志です。銅像の胸から下がった腕輪が不意に光を放ちます。その先に霧が深く澱む小高い丘が浮かび上がってきました。
「また会えましたわね」
また? わたくしは何を言っているのでしょう。さっきから頭がごちゃごちゃしていますわ。
早く行きなさいよ、と銅像の少女が言っているようでした。
わたくしは再び地面を蹴り出していました。磨かれた靴が泥をはね、小枝を折ります。お嬢様にあるまじき振る舞い。けれどそんなこと、今は知ったこっちゃありませんわ。
不意に、突き出した木の根が足をすくいました。抗う間もなく目の前の景色がひっくり返り、鈍い音とともにわたくしは地面に叩きつけられました。ドレスの白は泥に汚れ、膝に鋭い痛みが走ります。
手放しかけたクッキー缶が地面を滑りました。わたくしは必死に抱き寄せます。
「相変わらず転んでるね、セレーナ」
頭の上から、ひどく掠れた声が降ってきました。顔を上げると、見知らぬ男性が花畑の中に立っていました。まるで、世界に取り残されたかのよう。
「どちら様ですの?」
初対面のはずの殿方。それなのに、わたくしを見つめる彼の瞳は、まるで失くしたと思っていた宝物を見つけたかのように、酷く歪んで。
今にも泣き出しそうです。お会いしたことなど一度もないはずなのに、その眼差しを受け止めると胸の奥が軋むように締め付けられるように痛みました。
(これが世に言う一目惚れというものかしら……!?)
彼はわたくしの存在をたしかめるように歩み寄り、跪きました。泥に汚れたわたくしの手を、壊れ物を扱うように両手で包みます。彼の指には小さく光る指輪がありました。
「思い出さなくていいよ」
熱い。触れられた手から火傷しそうなほどの熱が広がります。わたくしは溢れそうになる想いをこらえながら、薄汚れたクッキー缶を差し出しました。
「あ、あの、これ。一緒に食べませんこと?」
場違い極まるわたくしの問いに、彼は一瞬、ぱちくりと目を見開きました。それから可笑しくてたまらないといった様子で声を上げて笑い出したのです。
少年のように笑う彼は差し出された缶の中から花の形をしたクッキーをひとつ、摘み上げました。その彼の指が微かに震えていることに、わたくしは気づきません。
「倒れなきゃいいけど」
そう呟いた彼はなんだかとても切なそうで──祈るようにそれを口に運びました。
「甘くて、美味しいね……」
彼は涙を目元に溜めてクッキーを噛み締めている。その瞬間、体が勝手に動いていました。わたくしはあろうことか、初対面の殿方の頬に口付けていました。汚れも気にせず、彼の首筋に腕を回してしまいます。
「ほら。わたくし、ちゃんとアルを見つけたでしょう?」
彼の身体がまるで魂を揺さぶられたように大きく揺れました。わたくしはハッと我に返ります。遠くから「セレーナ!」と呼ぶ家族の声が聞こえました。
「ごめんなさい! わたくし、あなたのこと、ちっとも存じませんのに」
彼から漂う花の香りが、あまりにも懐かしくて視界がぼやけました。彼はわたくしの目から溢れる涙を拭ってくれます。長い指先で今度こそ絶対に離さないと誓うように、愛おしそうに。
「心配しないで。俺たちはこれからもずっと一緒だよ」
その声は、優しくて、どこかひどく情熱的で。彼が次に紡ぐ言葉を心待ちにしていました。たとえ終わりがあろうとも、明日をともに生きることができる。
わたくしは遥か遠い昔から、今日というこの瞬間だけを待っていたの。
「また明日ね、セレーナ」
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