第25話 聖女アルカテニの誕生
「もう嫌! なにも、なにも見たくありませんわ。元の世界に戻してくださいませ!」
残念だが、それはできない。この魔法は、フロルアレオに刻まれた記憶の残像がすべて流れるまで解除できなくてね。最後まで付き合っておくれよ、セレーナ嬢。
『ぁ……っ……あぁ!』
『ヴェアル、なにがあった!?』
血痕が花畑へ続いていた。ヴェアルの泣き叫ぶ声で君たちの場所はすぐにわかった。僕が君たちの元に辿り着いた時、王宮から高く澄んだ鐘の音が、祝祭の空気を震わせながら響き渡った。
『聖女様が、魔物を退けられたぞ』
『奇跡だ! この国は救われたんだ!』
一つ、また一つ。フロルアレオの勝利を告げる調べが、街という街へ広がっていった。人々は手を取り合って笑い、平和の訪れに涙を流していたよ。君がここで冷たくなっていることなど、誰一人知らずにね。
セレーナ嬢の亡骸を抱きしめるヴェアルの腕は、ずっと震えていた。
「アル、ごめんなさい……わたくし、貴方を一人にしてしまったのね」
泣いているのかい? ヴェアルも悲しんでいた。あれだけ泣き虫だったのに、涙の一滴も流さずにね。もう枯れ果てていたんだろうけれど。
『許せない……絶対に、許さない』
ヴェアルは優しい子だった。君とまではいかないけれどフロルアレオを愛していた。愛しい君と二人で守り抜いてきた世界が、忌まわしい敵へと変わってしまった。
僕も婚約者を病で亡くしていたから気持ちは痛いほどわかった。だが、僕たちは国の上に立つ者だ。守らなければならない民のため、悲しみに暮れてばかりはいられない。弟も同じように乗り越えてくれるものだと──そう、信じて疑わなかったんだ。
『セレーナ、まだ寝てんの。もう朝なんだけど』
聖女の死はすぐには公表できなかった。街から響く民の声がヴェアルをどこまでも追い詰めていった。それでも喜びに沸く国民を思えば、君の葬儀も秘密裏に執り行うしかなかった。マルちゃんも頷いてくれた。
ただ、ヴェアルだけはどうしても君のそばを離れなくて。まともに睡眠もとらず、ずっと君に話しかけ続けていた。
『セレーナ、一緒にクッキー食べよう。だから、起きてよ……』
僕は、気が気ではなくてね。さすがに心配になってヴェアルを自室に戻そうとしたんだ。腕を引いても虚ろに彷徨っていた弟の目が、急に何もない空間でぴたりと止まったんだ。そして笑い出した。
そこには幸せだったあの頃の、幼い頃のまま鼻を真っ赤にした泣き虫な弟の顔があった。
『セレーナ、そこにいたんだ!? は、んははっ、なんだぁ、悪戯がすぎるって』
「アル、泣かないで……」
今の君の声は届かないよ。僕もあの時は弟の気が狂ってしまったのかと思ったんだが──今ならわかるんだ。
見えるかい? アルの周りに、かすかに輝く粒子が漂っているだろう。
『約束、したじゃん、ずっと、一緒だって……』
千年前の君もおそらくヴェアルのもとへ来たんじゃないかな。死してなお、魔力の強いものはその魂が地に残ると言われていたからね。命を使い果たした後、君は最後の魔力を彼のために絞り出したんじゃないだろうか。
そして、それが箱庭の引き金となった。
『行かせないから……天国になんて、絶対、絶対!』
輝く粒子がヴェアルの身体へと吸い込まれ、溶け、混ざり、閉じ込められていくだろう。あれは、おそらく君の魔力だ。底知れない狂気。今の君が知る「聖女アルカテニ」の産声だよ。
「まってください、でも、聖女の魔力を取り込んでしまったら!」
ご明察。ヴェアルにはもとより魔力があまりない。器が持ちこたえられるはずもないんだ。そこへ、あの蛇が現れた。君も、もう知っている蛇だよ。
「……ツィニカ、ですの?」
ヴェアルの足元から、どす黒い霧が這い出してきているだろう。実体を持たない、あの異形。あんな凶悪なものがそうだとは信じたくないが、あれが異形の神というものなのだろう。この僕が指先一つで吹き飛ばされてしまうくらい、太刀打ちできない力をもっていた。
遠い海の向こうの、日向かしの国とやらの衣を纏ったツィニカにヴェアルは魅入られてしまった。
『ワア、すごーい! 聖女の力を丸呑みにしちゃうなんテ』
ヴェアルはこのとき吸い込んだ魔力が体を焼き、人間としての器を内側から壊されていたんだ。どれほど苦しかっただろうね。蛇はその苦悶を何の感情もなく笑って眺めていたんだ。
『ねエ、どんな気分? 身体の内側から愛する人に作り変えられていく気持ちはサ』
あの蛇は弟に、この上なく最高で最悪の甘い言葉を囁いた。腐った花の香りが部屋に充満していたよ。
『でも、このままじゃキミ死んじゃうねェ。ソーダ! オレと一緒におままごとしなイ?』
『……おまま、ごと……?』
『そう。誰も死なず、何も変わらない、美しい箱庭デサ。素敵だと思わなァい?』
ヴェアルはまだ躊躇っていた。だが、街から押し寄せる歓喜の合唱がそれを粉砕した。無慈悲なほど高らかな民の声。それを聞いて、ヴェアルはもう迷いを断ち切ったようにツィニカの手を取った。
「そんな、駄目! アル!」
『いいネ! 最ッ高に美しい天国を作ろウ!』
二人の手が重なった瞬間。戦火で焼け爛れた大地に、見たこともない極彩色の花が音もなく咲き乱れた。そして君の魔力とツィニカの闇が混ざり合い、ヴェアルの肉体を侵食していったんだ。
短かった髪が生き物のようにうねり、伸びていった。金の輝きは色を失い、月の光を凍らせたような神聖で冷酷な銀へと変わる。男としての骨格を残しながらその貌だけが残酷なまでに美しく整って──もはや人のものとは思えぬほどに、完成されていった。
これが「聖女アルカテニ」の誕生だよ。
『俺が天国をつくるよ、セレーナ』
この瞬間から誰も死ねなくなった。フロルアレオの民はもう天国になんて行けないんだ。生まれ変わったばかりのヴェアルが、勝利の祝杯に沸いていた人々を一瞬で物言わぬ花へと変えた。君も誘拐事件の時、目にしただろう?
フロルアレオに生きる、すべての命が花となった。これが千年に及ぶ呪いのはじまり。命を、時間を、未来を。世界中のすべてを、君のための生贄としてヴェアルは捧げたんだ。
そして千年もの間。君が亡くなるまでの十九年間をフロルアレオは繰り返しているんだよ。
♢♢♢
水鏡が砕け散る残響を合図に、わたくしの意識は神殿へと戻りました。冷たい石畳に膝をつき、呼吸を整えることすらままなりません。
「……今の、が……真実ですのね」
「言っただろう、真実は必ず誰かを傷つけるって」
わたくしは自分の両手をじっと見つめました。震えを止めようとするほど、大きく揺れます。フロルアレオと世界を贄にして、わたくしが在り続ける限り箱庭は続いてしまいます。
「この世界を終わらせるには、君の魂を壊すしかない。それができるのはイアムだけなんだが……」
殿下の視線が静かにイアムの聖剣へと向けられました。イアムは柄を握りしめたまま顔を歪め、それでも一歩も動けずにいます。未来から来た彼女の使命は厄災の根を断つこと。けれどイアムは苦悶の表情を浮かべ、すでに答えを物語っていました。
聖剣の切っ先は、力なく石畳へと向いたままです。
「イアムはこの世界に来てから回帰を二度経験している。ただ、セレーナ嬢は絶対に彼女と友達になってしまうんだよねぇ」
「そうでしたの?」
「そうよ。無理やりぬいぐるみ作らされたり、観劇いかされたり、クッキー作らされたり……」
殿下が、諦めたように息をつきました。救いをもたらすはずの聖女が情に囚われたまま動けません。ですが、わたくしをイアムの聖剣で貫かなければこの閉じた世界に終わりは来ないのです。
「ツィニカの守護はセレーナ嬢が投げてくれた瓶の影響で弱まって、千載一遇の好機だというのに……完全に、詰みだ」
誰もが終わりを確信し、うなだれることしかできませんでした。そこに、規則正しい足音がすさまじい勢いで近づいてきます。揺らぐことのない凛としたその響きに、わたくしは弾かれたように顔を上げました。
「貴様ら! ここで何をしている!」
魔法省の制服を完璧に着こなしたわたくしの自慢の兄、マルシュ・チェルアルカ。彼が眼鏡の奥の鋭い瞳でわたくしたちを見下ろしていました。




