第24話 皮肉
「最初に断っておくが、聖女アルカテニという人間は存在しないよ」
以前、マルシュお兄様が言っていましたわね。ある日突然空から降ってきたかのようだ、と。
「あれは僕の腹違いの弟だ」
「ご兄弟でしたの!?」
髪の色も、纏う空気も、似た面影を探そうとしましたが見つかりませんでした。
何より魔法を行使するとき、フロルアレオの王族の瞳には花の紋章が浮かぶはずなのです。アルにはそれがなかったはず。
「第二王子ヴェアル・ディ・フロルアレオ。覚えはあるかな?」
「い、いえ」
ヴェアル、口の中でその名を呼んでみます。かすかな懐かしさが胸をよぎるばかりで、確かな姿形は頭の奥に沈んだままでした。
「小生意気で、負けず嫌いで、なのに泣き虫で。慈愛の聖女だなんて聞いて、僕は驚いたよ」
二人きりのときふと気の抜けた表情を見せたあの瞬間が、ヴェアルだったということ?
けれど、目に映っていたのは、紛れもなく聖女アルカテニの姿でしたわ。
「昔の話をしても、セレーナはそれを自分の記憶と結びつけられない状態よ」
「そうだね、イアム。なら」
わたくしが懸命に記憶をたどっていると、殿下の指先が宙をなぞり淡い光の紋章が虚空に浮かびあがっていきます。
その輝きに目を奪われているうちに、祈りの間の壁がじわりと透けていきます。空間が滲みはじめ、視界が光の粒で満たされていきました。
「セレーナ嬢、今から君を旅行に招待しよう」
「今から? どちらに?」
嫌な予感しか、いたしませんわ。殿下がゆるりと手招きなさいます。誘われるまま、水鏡のようになった床の前へ歩み寄った瞬間。
「千年前のフロルアレオさ、行ってらっしゃい!」
とん、と殿下に背を押されました。足元が音もなく抜ける感覚が襲ってきます。なすすべもなく、わたくしは水鏡の中へと落ちていったのです。
「殿下っ、お怨み申し上げますわーっ!!」
♢♢♢
──セレーナ嬢、セレーナ嬢。
「その声、殿下ですの!?」
よかった、聞こえているね。倒れているところ申し訳ないが、そろそろ起きてくれないと。昔の僕らを見逃してしまうよ?
「もう少し紳士的に案内できませんこと、殿下。……というか、直接頭に殿下の声を響かせるのやめていただけませんか」
邪険にしないでくれたまえ。水鏡の中は一人しか入れないから、声だけで案内するしかできないんだ。
それより、ほら。王宮の庭園だよ。幼い頃の君と僕の弟がいる。
『アル、大丈夫? また転んだのね』
『転んでないっ。セレーナこそ遅刻じゃん! お茶会始まるだろっ』
泣きそうなのに強がってる男の子。君のドレスの裾を掴んで離さない──あれがヴェアルだ。
『ちゃんと俺が贈った腕輪、つけてるんだろーな』
『はいはい、ネックレスにして身につけておりますよ』
今の銀髪でも緑の瞳でもなく、金の髪に青い瞳で。僕と似ているだろう?
「あれが、アル……」
そう。今も昔も、君はアルと呼んでいた。なぜなら──。
『俺の婚約者なら、すぐ来てよ!』
フロルアレオ第二王子の婚約者として選ばれたのは、代々王家に仕えるチェルアルカ家の令嬢である君だったから。
君がアルカテニからもらった腕輪は、ヴェアルが婚約の証に贈ったものなんだよ。
「わたくしの婚約者でしたの?」
そういえば、君はいま婚約者がいないことになっているんだっけ。
いくらマルちゃんが妹思いだからといって、公爵家の令嬢をずっと宙ぶらりんのままにするわけがないだろう?
『やあ、セレーナ嬢。いつも弟がすまないね』
『いいえ、殿下。彼の鼻水にドレスを汚されることにも、もう慣れましたわ』
『二人だけで話をす、ん、なっ。あっち行くぞ! セレーナ』
癇癪持ちで、泣き虫で。それでもヴェアルは、誰よりも優しかった。あの頃、君たちと王宮で過ごすひとときが永遠に続けばいい。僕は本気でそう願っていたよ。
「殿下……」
残念ながら、永遠なんてものはないけれど。セレーナ嬢、そのことは君も知っているだろう。
「ひっ! こ、これは!?」
驚いたかい? 千年前のフロルアレオには、黒煙と焦げた鉄と獣の臭いしかなかった。大地を埋め尽くす魔物の群れが濁流のようだろう。
だけど……ほら、見たまえ。最前線を駆ける男を。
『邪魔だ、どけッ!』
「お兄様!?」
世界樹の杖を手に、戦場を疾風のように駆け抜けるマルちゃんだ。彼は一人でも十分すぎるほど強かった。
だがもう一人、フロルアレオには戦神のような魔法師がいたんだ。
『マルシュお兄様! 二時の方向、焼き尽くしますわ!』
火球が空を引き裂き、魔物の群れを消し飛ばす。常に戦場の色を赤く塗り替える、乱れた黒髪を無造作に束ねた女。
セレーナ・チェルアルカ、その人だ。
「わたくし魔法が使えましたの? 冗談でしょう!?」
冗談じゃないさ。君はチェルアルカ家の名に恥じない、マルちゃんに並ぶ見事な魔法師だったんだよ?
『セレーナ! 勝手に前に出るなって……』
はは、震えている。魔物の返り血に塗れて、泥に足を取られながら君を追いかけているのがヴェアルだ。
あいつは魔法もそこそこで、華奢な体に剣はからっきしでね。戦場ではいつも泣いていた。
「なら、アルはどうして戦場に?」
花の国なんて、笑えるだろう。当時のフロルアレオは文字通り地獄だった。もともと魔力が豊かな土地柄だから魔物も多く、強くてね。
海に囲まれて逃げ場などなかったし、生きることと戦うことは同じ意味だった。王族も平民も、魔法を使える者は皆、戦場に立った。もちろん僕も、ヴェアルもだ。
そして人々は奇跡を、たった一つの奇跡を望んだ。
「聖女、ですの?」
そう、そして現れたんだ。もちろん偽物が──ただ光るだけの薄っぺらな詐欺師がね。偽物だと知りながら、僕は何も言えなかった。
絶望の中にいる人間から希望を取り上げるなんて、できないだろう?
「でも、それではフロルアレオが救われないのでは……?」
救われないどころか、日を追うごとに酷くなったよ。彼女は権力の味を知ってしまったからね、最後は投獄するしかなかった。
民の顔から光が消えるのは一瞬だったよ。叫びと嘆きが煙のように国を覆った。そんな時だったんだ。
『聖女などいなくとも、わたくしたちが皆を守ればよいのです!』
今でも目に焼きついているよ。絶望など最初からなかったとでも言うような君の瞳。その目が見ているのは希望だけだった。
君はただひたすらに愛していた。国も、民も、フロルアレオのすべてを。人々は祈り、君はその祈りを受け止めたんだ。
「……あっ、ああ……」
気分がすぐれないかい? すまないね、だが逃げないでおくれ。
「わたくし、わたくしが……聖女だったの?」
正確には、聖女となったんだ。聖女とは五元素とは異なる聖なる魔法を使う者。本来、生まれながらに魔力の質は定まっているから変わることなどあり得ない。
それが変わったのだから、まさに奇跡と呼ぶしかないだろうね。
『セレーナ、貴様なんだその魔力は!?』
『お兄様、わたくしがこの戦いを終わらせてみせます!』
君の力でフロルアレオを覆い尽くしていた魔物はすべて焼き払われた。平和の訪れと聖女の誕生を、国の皆が喜んだ。
ただ一人を除いてね。
さあ、セレーナ嬢。見覚えのある景色が見えてきたんじゃないかい?
「ここは、あの花畑?」
聖女とは生まれながらに決まっているんだ。その魔力の器をもって生まれてくるからね。でも君は違う。膨大な魔力は、それを受け入れる器がなければ自身を傷つける。
君も例外じゃなかった。
『セレーナ、なんで!? やだ、嫌だっ! 置いてくな……っ!』
この満月の夜はヴェアルの誕生日だったんだ。毎年、丘の上のこの花畑で君たちは二人きりでお祝いしていた。
立っていることさえままならなくなっても、全身から血が滲んでも。君はこの花畑へ向かったんだよ。
『ヴェ……アル、お誕生日、おめ、でと……』
『どうして、こんな……!? 誰か来てくれよ! セレーナを助けて!!』
ヴェアルに誕生日プレゼントの指輪を贈るためにね。ピンクダイヤモンドの指輪だよ。永遠の愛、なんて皮肉だね。
『やく……束、し……』
君は結局ヴェアルの指にそれを嵌めることができなかったんだ。肺に溜まった血が最期の言葉を奪って、君の指先は花畑の上へ落ちた。
ヴェアルはとうとう君が何を約束しようとしていたのかを知ることができなかったんだ。
それから三日後のことだったんだよ。フロルアレオが滅んだのは──。




