第23話 死と厄災の国
立ち上がることができず、うずくまっているイアムを落ち着けた後、殿下はわたくしに声をかけてきました。
「セレーナ嬢、まずは謝らせておくれよ。傷つけようとしてすまなかったね」
確かな謝罪の言葉。ですが、その声には、罪悪感のかけらも滲んでいません。まるで踏んでしまった花を詫びるような軽さでした。
「謝罪は不要ですわ──それより、イアム。顔を上げてくださいな」
殿下の足元、そこにイアムが崩れ落ちています。石畳に額を擦りつけ、小刻みに震える指先が見えない何かに祈りを捧げているように見えました。
返答はありません。ただ、指先の震えが少しだけ大きくなった気がしました。沈黙が満ちた神殿をさらに深くしていきます。
「アルカテニは君になんて言ったんだい? 君を救うために時間を戻す、とか?」
「ええ。わたくしも、アルのために未来から戻ってきて……」
「本気でそう思っているのかい?」
殿下は鼻の先で笑いました。背筋を蛇が這い回るような気味の悪さを感じていると、神殿の崩落が始まります。巨大な瓦礫がわたくしの真上から容赦なく牙を剥きました。
咄嗟に避けようと、足に力を込めます。
「おっと。動かないで」
「殿下、何を……っ!」
殿下の鞘がわたくしの足元を払いました。重心を崩し、石畳に膝を突きます。頭上では、逃げ場を塞ぐように瓦礫の影が迫っていました。
ぶつかる!
恐怖で顔を手で覆います。しかし、わたくしを押し潰すはずの瓦礫による痛みが襲ってくることはありませんでした。
わたくしの直前で不自然に静止していたのです。重力を忘れたように宙に留まったかと思うと光の灰となって消えていきます。
「……助かりました、の?」
呆気に取られているわたくしの前で、殿下はひどく退屈そうに肩をすくめました。
「ほらね、死なないんだ。君は」
殿下は特に驚いた様子もなく剣を杖代わりに突き立てます。わたくしを見下ろすその目には、怒りも安堵も憐れみもありません。つまらない、それだけでした。
「死ねない、が正しいか。君がどれだけ望んでもこの世界はそれを許さない。とんだ茶番だ」
「茶番、ですって……?」
「そう。歪に作られた、たった一人のための箱庭」
殿下は地面に転がる瓦礫の破片を、つま先で無造作に蹴りました。破片は転がる途中でまた光の灰となって消えます。
「抗うだけ無駄だったか……ねえ、イアム」
名前を呼ばれた彼女が力なく顔を上げます。その瞳から一筋の涙が零れ、地面に落ちる前に光となって弾けました。
世界そのものが、実体を保てずに崩壊を急いでいるようです。
「セレーナ、あたしは聖女なの」
「聖女? イアムが?」
イアムの声は祈りのように切実で、呪いのように重く響きました。
「そう。私は世界を救うため、死と厄災の国フロルアレオに来た」
「死と厄災の国? フロルアレオは花の国ですわ」
「千年前はそう呼ばれていたみたいね」
千年前? 自分の声が、情けなく震えました。
イアムが、おぼつかない指先で虚空をなぞります。そこにはフロルアレオを囲む海が、どす黒く変色して映し出されていました。
「世界は千年の間、瘴気による病気や魔物に蝕まれてる。溢れ出す呪いの中心はここ」
「何を、仰っているの……」
「セレーナは自分が未来から過去に戻ってきたと思ってるんでしょ」
答えようとしたのに、できませんでした。わたくしは確かに回帰したはずです。なのに、その瞬間を辿ろうとしても記憶がするりと抜け落ちていました。
アルが剣で貫かれたあと、わたくしはどうやって過去に戻ったの?
「わたくしは、アルを救うために未来から戻ってきた……」
声に出すと、言葉が自分のものではないように聞こえてきました。
「違うわ。フロルアレオという国は同じ時間を繰り返しているだけ。未来から過去に戻るなんて、そんな魔法──どんな魔法師だって、聖女だって使えやしない」
わたくしがやり直したと信じていた日々。アルの優しさも、わたくしを求めてやまないあの視線も、何もかもが虚構だというの?
「戻れない過去と訪れることのない未来によって作り出された現在の幻。ここはアルカテニが世界に呪いを撒き散らして作り続ける、箱庭なの」
「嘘ですわ!」
わたくしは、イアムの言葉を遮るように一歩踏み出しました。膝が震えています。でも足は確かに前へ動きました。
次の言葉が出てきません。続きをどうしても口にできませんでした。記憶の中のアルが微笑むたびに、その微笑みの輪郭がぼやけていってしまいます。
「嘘、ですわ」
もう一度繰り返したその声は、イアムではなくわたくし自身に向けていました。
「僕もイアムから言われた時は信じられなかったよ」
殿下は今にも崩れそうな柱に背を預けて、会話に入ってこられます。こめかみに指を当てながら言葉を続けました。
「でもね、イアムと過ごすうちに本当の記憶が少しずつ戻ってきたのさ。さすがは未来から来た聖女様といったところか」
「本当の、記憶……?」
繰り返した言葉が乾いた砂となって、口の中でざらつくようでした。
わたくしの前で倒れたアルの微笑み。ピンクダイヤモンドの指輪を買ったときに蘇った、自分のものとは思えない記憶たち。それらすべてが嘘だと思いたくなくて、わたくしは必死に首からさげたアルの腕輪を握り締めました。
「そうだよ、セレーナ嬢。その腕輪が本来誰のものか、君は覚えていないだろう?」
ひゅ、とわたくしの息が詰まります。やめて、それ以上なにも言わないで。
「千年だよ。記憶を残したまま永劫の時を過ごせば、普通の人間は狂ってしまう。だから箱庭の聖女は記憶を消し、書き換える」
視界の端で神殿の柱が一本、音もなく崩れました。わたくしは、それを見ても逃げようとしません。瓦礫はどうせ消えるのです。世界が崩れても、わたくしは死なない。
今、わたくしの足元から崩れているのは──。
「特に君の記憶は、ほぼ作られたものと言ってもいいんじゃないかな」
わたくしは、とうとう何も言えなくなりました。言葉を探しましたが見つかりません。見つかったとしても、その言葉すら作られたものかもしれないと思うと、口を開くことができませんでした。
殿下はそんなわたくしを見て、その場に座り込みました。腰に提げた剣を躊躇いなく遠くへ投げ置きます。もう必要がないと判断したのでしょう。
「また世界が繰り返される前に寝物語といこうか。僕が覚えている最初の世界の話をしてあげるよ、セレーナ嬢」
物語の本当の始まりが、殿下の唇からゆっくりと零れようとしていました。




