第22話 箱庭へようこそ
「イアム、泣かないで」
そっと彼女の目頭を拭いたかったのに、わたくしの指先は空を切るばかり。肩も振るわせず、声も上げず、イアムは静かに頬を伝う雫に自分自身でさえ気づいていません。
最初に出逢ったときもそうでしたわね。
「命乞いしたって無駄よ。あたしは今度こそあんたを殺すの。世界を、救うのよ……」
イアムの握るレイピアが、カチカチと微かな音を立てて震えていました。わたくしがいなくなることで世界が救われる。そして彼女なら、それを成し遂げることができるのでしょう。
「貴女ならできるの? イアム」
わたくしの言葉を聞いた瞬間、イアムの目がカッと見開かれました。彼女は振り上げた剣を激しく床に叩きつけます。
「ふざけないで! なんであんたが先に諦めんのよ!!」
襟元を掴まれ、強引に引き寄せられました。パン、と乾いた音とともにわたくしの左頬が熱を持ちます。
「こっちは、あんたが助かる方法がないかって......! あたしがどれだけ考えて、考えて、考えてきたと思ってんの!!」
祈りの間に彼女の悲痛な怒号が響きました。ひびの入ってしまったガラスが割れていくような怒りに、わたくしは言葉が見つかりません。
零れ落ちるイアムの涙が、床に点々と深い色の染みを作っていきました。自分の言葉がどれほどまでに彼女を追い詰めてしまったのでしょう。
「急げ、イアム……っ、拘束がもう保たない!」
アルを光の鎖で繋ぎ止めている殿下が、苦悶に満ちた声を絞り出しました。
イアムはよろよろと立ち上がり、落としたレイピアの柄を強く握り直します。再びわたくしに向けられた切先は、混迷を極める彼女の心そのままに小さく揺れていました。
「ないのよ……どこにもないの! あんたも助けて、世界も助けて……そんな都合の良いお伽話は!」
拘束されたままのアルは抵抗することもなく、わたくしたちを見ていました。その唇に刻まれた笑みは迷える子羊を慈しむ聖女そのものです。殿下の放つ光の鎖が見えない牙に喰い千切られる不吉な音を立てていました。
「こんな、箱庭をつくった化け物のことなんて分かりたくもないのに! 結局あたしも同じ!」
アルから溢れ出す魔力は花の腐敗した香りを伴っています。
わたくしはチェルアルカ家の令嬢として、わたくしは数えきれないほどの教養を身につけてきました。魔法も、言語も、外交も、それなのに。目の前で泣き崩れる大切な人にかける言葉が、なに一つ見つけられません。
「君しかこの世界を終わらせることができないんだ、イアム!」
叱咤する殿下の声も、もはや今の彼女には届かないようでした。イアムの手からカランと力なく武器が滑り落ちます。膝の力が失われ、崩れ落ちました。
「どうしてあたしのこと……嫌いになってくれなかったの、セレーナ」
震えの止まらない足で這いずり、嗚咽の止まらない彼女をわたくしは強く抱きしめました。
きっとわたくしの知らないかつての地獄で、立ち上がり、剣を振るい、愛する者を殺し、それでも運命を変えられなかったイアムを──わたくしはただ、強く抱きしめました。
「言っただろ、運命は変えられないって。セレーナを殺せないおまえは泣いて膝をつく。おもちゃみたいな剣で俺を殺すしかないんだよ」
世界を巻き戻すためにね、とアルが蠱惑的に笑いました。背後で彼を拘束していた魔法が砕け散る音が響きます。解放の衝撃が走り、殿下が呻き声を残して祭壇の入り口まで吹き飛ばされてしまいました。
アルは震えるイアムの肩に触れ、まるで旧知の友人に語りかけるような親密さで囁きます。
「泣かなくていいじゃん、イアム。そこまでセレーナを思ってるなら、仲間に入れてあげるよ。ずーっと俺たちと一緒に、またクッキーを作るんだ」
「……それも、いいかもね」
彼女の瞳から光が消えていきます。それは、普段アルがわたくしと二人のときに見せる仄暗さと同じでした。呟く前に、ほんの一瞬だけイアムがわたくしに目を向けます。許しを請うような、あるいは別れを告げるような、ただ一度きりの眼差し。
彼女はあまりに長すぎた悪夢からようやく逃げることを許された子どもの顔をしていました。
「箱庭へようこそ、イアム・フォルカンティ。歓迎するよ」
アルの魔力に呼応し、祭壇の床が輝き出します。同時に大地が大きく揺れ、世界の終わりを告げていました。天窓を見上げれば、星も満月もすべてを呑み込む漆黒に塗りつぶされています。
震える手でわたくしはアルの衣を縋るように掴みました。彼はひどく穏やかな表情でわたくしの額に柔らかな口づけを落とします。
「大丈夫、元に戻るだけだから。約束したでしょ? 俺たちはずっと一緒」
アルはわたくしの腕を優しく解くと崩壊の渦の中心──祭壇の出口へと歩み出しました。
「待って、アル! お願い!」
「俺たちの花畑に来て、セレーナ。そこで待ってるから」
倒れ伏す殿下を顧みることなく、アルの姿は光の中へ消えていきました。追いかけようとしたわたくしの足を殿下の声が繋ぎ止めます。
「待ちなさい。君一人が行ったところで、何も変わりはしないよ」
「ですが殿下……!」
「困るんだよ、君が行ってしまうと」
殿下が吐き出した声は、血を吐くような重みを伴っていました。力なく崩れ落ちているイアムの元へ歩み寄り、殿下はご自分のマントをその肩にかけます。
砕け散ったご自分の魔法の残滓を眺めて、疲れ切ったように目を閉じられました。
「この箱庭の幕が降りる条件。それは君と聖女が丘の花畑に揃って、聖女が命を落とすことなんだから」




