第21話 あなたも未来から
神殿に差し込む赤い光が夕方だと教えてくれています。
「セレーナ、お帰りなさい」
聞き慣れたはずの声に、わたくしは振り返りました。アルの元へ帰ってきた実感が湧いてきます。
透き通るような銀髪に深い森を思わせる緑の瞳、そして慈愛に満ちた微笑み。いつも通りの聖女アルカテニ様がわたくしを待っていました。
「セレーナ・チェルアルカ、ただいま戻りました」
「貴女と離れている時間、本当に寂しかった」
わたくしはドレスの裾を摘み、完璧な一礼を返します。
「セレーナ?」
顔を上げないことを不思議に思ったのか、アルは覗き込んできました。彼の指がすっとわたくしの顎を持ち上げます。
「顔色が良くありませんね。私がいない間になにかありましたか?」
「いえ。白百合の咲く湖がとても綺麗でした」
彼は周囲の側衛官たちにも柔らかな笑みを振りまいていました。けれど、わたくしを見つめる目の奥はひどく暗いものです。
笑顔を崩さず、わたくしはその手から逃げるように一歩下がります。アルの瞳に映る自分が、小さな籠に閉じ込められた鳥に見えてなりませんでした。
「じゃあ早く私たちの部屋に戻りましょう。甘いお菓子をたくさん用意したのよ?」
いつも通りのやり取り。いつも通りの笑顔。それなのに耳元で囁かれる声がいつもより鮮明に聞こえます。
「二人きりになったら聞かせてよ。向こうで何があったのか、さ」
夕闇が迫る神殿の回廊をアルが悠々と歩きます。隣を歩くわたくしのヒールが音を立てていました。
周囲に人の気配はありません。チャンスは今しかありませんわ。わたくしはカツンと足を止め、彼の背中に向かって声をかけました。
「アル、話があるの」
アルが立ち止まります。止まったわたくしに彼は顔だけ振り返ると、にんまりとほくそ笑んでいました。
「ここで? 部屋じゃダメな訳?」
──わかりたくない、の間違いでショ?
ツィニカの不快な言葉が耳の奥で蘇ります。本当にいつも通りの日常。けれど、今は廊下に飾られた花の香りさえ甘すぎて吐き気を誘います。
一度芽生えた違和感はもう拭い去れません。
「いま、話したいの。わたくしとアルの……前世についてですわ」
アルの眉がわずかに動きました。わたくしの予想していた動揺はありません。
「ちょうど今夜は満月だね」
アルはわたくしの手を掴みます。その手に着けられているピンクダイヤモンドの指輪から、逃げられないほどの魔力が伝わってきました。
「満月が頂に登る頃、神殿の祈りの間に来て。そこでゆっくりお話しよ……二人きりで、ね」
彼はそのまま一度も振り返らずに立ち去ってしまいます。不気味なほど丸い月が東の空からじわりと這い出してきていました。
──そして深夜。満月が空の一番上に見えていました。
祈りの間は粛然としています。天窓から差し込む満月の光が大理石の床に、祭壇まで続く道を作っていました。
祭壇の前に立つアルの背中は、いつになく遠く感じられます。
「別荘は楽しかった?」
「白百合だと思っていたら蛇でしたの」
「ツィニカと会ったんだ」
やはり彼はツィニカのことを知っていました。アルの表情は満月の逆光に照らされて暗く、読み取れません。
「アルの腕輪を彼に取られてしまって……瓶を、投げてしまいました」
「へぇ! やるね、セレーナ」
アルはくすくすと喉を鳴らしました。一歩、また一歩と彼が距離を詰めてきます。じわりじわりと逃げ場がなくなっていく。その感覚に足が震えました。
「彼はわたくしが箱庭に飼われていると言っていました」
わたくしは逃げ出したい衝動を抑えます。いま真実と向き合わないでどうするの、セレーナ!
「アル、あなたも未来から過去に戻ってきたのではないの?」
その瞬間、アルの動きが止まりました。彼は震えるわたくしを縛るように強く抱きしめます。
「俺が刺されたときのこと、覚えてる?」
「……! やはり、あなたも」
「あの時、セレーナは何考えてたの」
前世でわたくしが見た最後の瞬間。あのとき、わたくしが考えていたことは。
「置いていかないで、って」
「んは、ははっ! あははは! 本当にそう思ったんだ!?」
アルは「最高じゃん」と呟き、わたくしの頬を包み込むように手を添えます。彼は狂おしいほどの歓喜で、自分の目を濡らしていました。
「そうだよ、俺は君のために死んだ。巻き戻った世界で、俺は何度だって死ねる──君のために!」
「わたくしの、ため?」
わたくしは彼を守るために過去へ戻ったと思っていたけれど、アルもわたくしと同じだったということ?
しかも、それは一度ではない?
「約束したもんね、ずっと一緒だって」
怖くなったわたくしは突き放そうと彼の胸を押します。
わたくしの目の前にいるのは、聖女ではありません。愛という名の檻に閉じ込める美しき怪物。
「セレーナも俺と同じ気持ちでいてくれて、すっごい嬉しい」
「アル、あなたは……」
言葉を続ける前に、背後の大扉が地響きを立てて跳ね上がりました。神殿の静けさを切り裂く靴音が祈りの間に流れ込みます。
「なんとか間に合った、というところかな」
殿下は芝居がかった動作で肩をすくめ、天窓の月を見上げます。その隣には見覚えのある黒いローブに包まれた人間がいました。
「殿下、なぜここにいらっしゃいますのっ」
「ガーデンパーティーのときに同席すると言っただろう?」
満月の夜に同席したい、と確かに殿下は仰っていました。イアムと一緒に。だとすれば、殿下の隣にいるのは……。
「なんど来たって、おまえに運命は変えられやしないよ。イアム・フォルカンティ」
「あたしを舐めてると痛い目見るわよ。箱庭の聖女」
イアムの声でした。彼女が顔まで隠れる黒いローブを無造作に剥ぎ取ります。その手には細く研ぎ澄まされたレイピアが握られていました。
その刀身を見た瞬間、自分の背中に冷たい汗が伝います。
「アルを、殺した剣」
アルがわたくしの前で胸を貫かれて崩れ落ちる最期。その時と全く同じ状況に、わたくしは立ち尽くしました。
信じたくはありませんが、前世でアルを手にかけたのはイアムだったということ。
「わたくしは、このときのために戻ってきたのね」
記憶の断片が一つに繋がっていきます。わたくしは震える足でアルを背中に隠すように立ち塞がります。
「アル、今度こそ絶対に守ってみせるわ」
イアムの剣先が月光を反射して輝いていました。彼女がレイピアを構える姿に深い決意があらわれています。
一触即発の空気が祈りの間を埋め尽くしていました。
「今だ、イアム!」
殿下の鋭い号令が空気を切り裂くと同時に、光の魔法がアルに迫ってきます。わたくしは目を閉じたくなる気持ちを我慢して、殿下の魔法からアルを守ろうと腕を広げました。
「……あは。あはははは! ラルモヴァーロ、愚かなお前に何ができる!?」
光の魔法がアルの四肢を拘束していきます。彼の狂ったような笑い声に背筋が凍りそうでした。
わたくしの眼前では、イアムが迷いのない踏み込みを見せています。
「元凶を殺すんだ!」
──殺す? わたくしを?
殿下の声が遠くに聞こえます。かつてアルを殺したはずの切っ先が、わたくしの喉元にせまっていました。
「ごめん、なんて言わないから」
「いたっ……!」
イアムはわたくしの首に手をかけてます。馬乗りになり、剣を突き立てようと構えていました。
「あたしが最初に言った言葉、忘れたわけじゃないでしょ」
突きつけられたレイピア。冷たい鉄の感触が喉の皮膚に触れるか触れないかのところで止まっていました。
イアムの腕に力が籠もっているのか、ぶるぶると震えています。憎しみとも悲しみともつかない激情が、その手に込められていました。
「大っ嫌いなのよ、あんたのこと」
──なぜ? どうして?
先ほどから、ずっと訳のわからないことが起きているけれど。それでも、なんとかわたくしは彼女に手を伸ばそうとしていました。




