第20話 結末は変わらない
夕日の名残が淡く漂う空。西の地平線から静寂な夜が侵食し始めています。薄い月明かりが、鏡のような湖面に冷たく反射していました。
「ちょっと! 止まりなさいってば……っ!」
休むことなく走り続けて、息が上がってきます。わたくしはアルの腕輪を奪って逃げた「白百合の暴君」を追いかけていました。お兄様を置き去りにしたまま。
わたくしの足元の枯れ枝が音を立てて折れます。数歩先に立つ彼は、こちらを振り返ろうともしませんでした。
「もうすぐ満月だねェ」
どこか歌うような声が湖に流れてきます。湖に佇む姿だけを見れば、月の精霊かと見まごうほどの幻想的な美しさでした。
「その腕輪、返していただけますか。白百合の君」
「白百合の君ィ? そういえば、まだ名乗ってなかったっけ。ツィニカって言いまァす」
ツィニカと名乗った彼が、目の横でポーズを取ります。しかし、フェイスヴェールのせいでその表情は一切窺い知れません。
わたくしは視線を彼の左手に集中させます。アルからもらった大切なクロッカスの腕輪。
なぜツィニカは腕輪を奪ったのか。なぜこれがアルのものだと知っているのか。疑問が怒涛の勢いで押し寄せ、何から問いただせばいいのかさえ分かりませんでした。
「ってか、オレら初めましてジャないじゃーん?」
「何を仰っているの? わたくしたちが出会ったのは、今日が初めてでしょう?」
彼は軽やかに、くるりとターンします。すると周囲に咲き誇っていた花々が、彼の動きに呼応してしおれていきます。
「酷いっ。前世では将来を誓い合った仲だったのに……オレのことは遊びだったのねッ!」
「えっ?」
「ウッソ〜」
ツィニカの話をはぐらかす物言いに、わたくしは頭に血が上りそうです。彼の口角が吊り上がる気配が声だけで伝わってきました。
不意に霧が立ち込め、世界から切り離されるように視界が白く濁っていきます。
「貴方も、前世の記憶をお持ちなの……?」
彼の背後に広がる湖。それは底の見えない闇が口を開けているようでした。
「あれェ? 今回は記憶ある感じ?」
わたくしは全身が凍りついたように動きません。彼は動揺を感じ取ったのか低く、愉しげに笑いました。
「やるじゃーん。じゃあ、そろそろリセットかなァ」
「何を仰っているのか理解しかねますわ」
自分でも驚くほど声が震えてきます。ツィニカは空に浮かびそうなほど軽やかな足取りで歩み寄ってきました。
「わかりたくない、の間違いでショ?」
思い出せないはずの血の匂いや、誰かの叫び声。それらが意識の奥底から彼の言葉で溢れ出しそうになります。
「愛しの聖女様のこと、信じられないんだよネ?」
ツィニカがわたくしの耳元で毒を吐くように囁きました。反射で自分の耳を塞ぎ、距離をとります。
「何度も何度も記憶を消されて、箱庭で飼われるのってどんな気持ちィ?」
「世迷言を! わたくしは、アルを守るために……!」
「健気だねェ。オレ、感動して涙が出そう」
彼は腕を広げて、わざとらしく溜息をつきました。普段、人に抱くことのない嫌悪感が腹の底から湧き上がってきます。
「キミがどれだけ頑張ったって、結末は変わらないのにサァ」
湖底から響くようなツィニカの高笑い。足元から這い上がる笑い声に、奥歯がガチガチと鳴り始めます。わたくしの心に潜んでいた違和感。
わたくしが回帰してからのアルの執拗なまでの眼差し。二人きりの時に見せるあの飢えた表情。もし、それらすべてがわたくしを「箱庭」に閉じ込めるためのものだったとしたら──?
「……黙りなさい」
「都合の悪いコトは信じない感じィ? そういうところ、アルカテニとそっくりだね」
ツィニカは沈黙を「絶望」と受け取ったのでしょう。
さらに距離を詰め、わたくしの頭に手を伸ばしてきました。その指先からは相手を意のままにしようとする、どろりとした魔力が感じられます。
「もう、いい加減にしてっ!」
叫びと同時に右手が勝手に動いていました。ポケットから引き抜いたのは、殿下から預かっていた小さな玻璃の瓶。
何も考えられぬまま、ツィニカの顔面を目がけてそれを思い切り叩きつけました。
「あ……?」
虚を突かれたツィニカに瓶は見事に命中します。夜の湖畔に不似合いなパリン、と割れる音が響き渡りました。
砕けた破片が月光を浴びて飛び散り、中から溢れた透明な液体が彼の顔から胸元へと飛散します。
「いっ、た! 何ソレェ!?」
その瞬間、彼を包んでいた不遜な空気と周囲を支配していた圧倒的な威圧感が脆くも崩れ去りました。
「図星を突かれたからって、人に割れモノを投げるとかある!?」
ツィニカが顔を覆ってあとずさります。彼を包んでいた陽炎のような魔力が消え、代わりに周囲の草花が本来の瑞々しさを取り戻して一斉に茎をもたげ始めました。
わたくしは荒い呼吸を繰り返し、右手を爪が食い込むほど握ります。
「あなたに、わたくしたちの何が分かりますの……!」
ツィニカがフェイスヴェールを自ら引き剥がしました。露わになった金と紫の双眸。そこにある明確な殺意。
『蛇に気をつけなさい』
殿下の警告が、今更ながらに脳裏を掠めます。
「分かってないのはお前だけなんだよォッ!」
ツィニカの怒声が静かな湖畔を震わせました。幻惑的な美しさは剥げ落ち、剥き出しの凶器となった視線がわたくしを襲います。
彼が腕を振るうと、夜の闇を凝縮した漆黒の茨が地面から突き出しました。恐怖で足がすくみ、逃げられません。
(ここまでですの……!?)
死を覚悟し、ぎゅっと目を閉じました。
「動くな、セレーナっ!」
聞き慣れた叫びとともに、凄まじい衝撃波が眼前で炸裂します。
目を開けると、そこにはボロボロのお兄様の背中がありました。乱れた髪、汚れのついた頬。必死に追いかけてきてくれたことがその姿から痛いほど伝わります。お兄様の手に握られた世界樹の杖は、かつてないほど鋭い光を放っていました。
「我が妹に手を出すとは……貴様、万死に値するぞ」
選りすぐりの魔法師たちが所属する魔法省で頂点に立つマルシュお兄様。杖を一閃させると、吹き荒れる突風がツィニカの茨を粉々に粉砕しました。
「げほっげほ……萎えた! 空気読めよなァ」
ツィニカは舌打ちをし、不快をあらわにします。彼は奪った腕輪をわざとらしく、わたくしの足元へ放り投げました。
「あーぁ、もう帰ろ。……これ、返す。キミの首輪なんていらなーいッ」
皮肉な笑いを残し、彼は霧の中へ溶けるように消えていきます。お兄様が追撃の魔法を放ちますが、そこには夜の静寂が戻っているだけでした。
「セレーナ! 無事か、怪我はないか!」
駆け寄ったお兄様が肩を強く抱きしめます。その手の震えがわたくしを必死に探していた時間の長さを物語っていました。
「ありがとうございます、お兄様」
答える自分の声は、どこか遠い他人のもののようです。
わたくしは足元に落ちた腕輪を、そっと拾い上げました。ツィニカの言葉が耳の奥で呪いのように反芻されます。
──わたくしの「回帰」を知っていた男。
──そしてアルの「正体」を知る男。
これまで、アルを守ることだけがわたくしの使命だと思っていました。
彼がつく嘘を一緒に背負うこと。彼の命を狙う敵から遠ざけること。それだけで本当に「共犯者」といえるのでしょうか。
(いいえ。わたくはちゃんと知ろうとしなかった)
腕輪を強く、強く握りしめます。
「しっかり……アルと話をしなければなりませんわ」
心配そうに覗き込むお兄様の問いかけにも答えず、わたくしは空を見上げました。
あの慈愛に満ちた、けれどどこか空虚な瞳の奥に隠された真実。それを知らなければ、わたくしは彼を本当の意味で守ることはできません。
雲ひとつない空に浮かんだ月の光が、わたくしの決意を罵り笑うように照らしています。




