第19話 白百合の暴君
出生届が存在しない。それは聖女アルカテニが、この国に存在していないということ。
「王宮に残る記録を全て洗った。それなのに、あのお方の出生届が見つからない……空から降って現れでもしない限り、あり得ないことだ」
アルが性別を偽って聖女の座に君臨しているのは紛れもない事実です。出生届がないなら、わたくしの知っている彼はいったい何者だというの?
「これ以上は深入りするな、セレーナ」
厳しい瞳と忠告が、愕然としているわたくしに向けられます。国家反逆の嫌疑をかけられようとも、妹を案じる兄の分かりづらい思いやりでした。
「今は難しいことは忘れましょう。どうぞ、ローズティーを召し上がってくださいな」
胸に湧き上がって止められない疑念。そこから目を背けるように、明るい声を出してカップを差し出しました。しかし、お兄様はそれを受け取ろうとはなさいません。窓の外を通り過ぎた「なにか」を追うように、その瞳が激しく揺れました。
「あれは……」
お兄様の喉が小さく動いています。未知の魔法にでもかけられたのか、あんなに険しかった表情が崩れていました。
「どこかお加減でも?」
「いやなんでもない。百合が、綺麗だと思っただけだ」
慌てて顔を背けておられますけれど……隠し切れていませんわ! 耳の裏が熟した果実のように赤く染まっています。わたくしは兄の視線の先を盗み見ました。陽光に伸びたしなやかな影が遠ざかっていくのが見えます。
「もしかして外の空気が吸いたくなったのではありませんか!?」
そんなことは一言も言っていない、と抗弁しながら眼鏡のブリッジを上げる手は重いものでも持っているかのように震えていました。恋に落ちたのですわね! 我が兄、マルシュ・チェルアルカ!
「お散歩に行きましょう! 良い気分転換になりますわ!」
「待て、一人で先に行くんじゃない!」
どんよりとした絶望の淵に差し込んだ一筋の光。妹としてこれを逃す手はありませんわ。お兄様の制止など、どこ吹く風。華麗に受け流して駆け出しました。目の前にいる運命の女性を逃してはなりません。わたくしの心臓は、これから始まる恋のプロデュースへの期待で激しく高鳴っています。
「お待ちになって、麗しき方!」
ドレスの裾を翻し、お兄様が一目惚れしたであろう人物に声をかけました。お相手は足を止め、こちらにゆっくりと振り向きます。
冬の雪化粧をほどこしたような白い髪が春の風にふわりと舞いました。この国では見ない幾重にも重なった白と淡いライラック色の布に身を包み、春風をはらんだ帆のような袖が揺れます。フェイスベールで顔全体を覆い隠したその姿は、この世界の人間ではないのではないかと畏怖の念を抱くほどでした。
「申し訳ありません。あまりの美しさに、どうしてもお声をかけずにはいられなくて!」
背後を振り返ると、湖まで続く遊歩道の端にある木に身を隠している男が見えます。お身体が大きすぎるので隠れ切っておらず、こちらから丸見えです。
「あちらにいる男はマルシュ・チェルアルカと言いますの! 貴女を一目見て、彼の世界は薔薇色に染まったのです!」
「き、貴様、勝手なことを」
そんなことを言いつつも、彼はよろよろとこちらに歩み寄ってきます。目線はしばらく地面を這っていましたが、お相手の前に立つと急に背筋を伸ばして襟を正しました。
「……突然の妹の非礼、許してほしい。だが、その、よろしければ貴女のお名前をお伺いしてもいいだろうか。白百合の君」
なんて初々しいアプローチ。こと恋愛に関しては、真面目人間にとって最も高い壁なのです。彼女はなにも答えず、フェイスベールの上から口元を手で押さえていました。女性にしては妙に逞しい手。もしかして、このお方は──。
「オレでいいのォ~?」
鼓膜を震わせる声は落ち着いた低い音域ですらありませんでした。腹の底から響いてくるような野太く重厚なバス・バリトン。可愛らしいお顔から少年の声が聞こえてくることに慣れていても、耳を疑うほどの低音……これは明らかに男性ですわ。
「でもォ、オレ自分より背の低い男は好みじゃないんだよネェ」
白百合の君がどんどんこちらに近づいてくると、その背丈は兄をゆうに超えていました。わたくしは口をあんぐりと開けて見上げるしかありません。
「嘘、だろ? 俺の一輪の、百合……」
潰された蛙みたいな声を漏らし、ショックから石の如く固まっているお兄様。それを見て耐えられなくなったのか、大笑いする男の声が辺りに響き渡ります。
「勝手に勘違いしたのはそっちなんだから、オレを恨まないでよねェ〜」
声だけでなく仕草も豪快で、もはや隠す気もなさそうです。お兄様はそのまま地面に崩れ落ちていきました。なんということでしょう。彼の新しい恋を見つけるという、完璧なプロデュースは開始数分で大破いたしました。
とんでもない衝撃に二人とも頭が真っ白になってしまいます。無惨にも恋を砕いた男は黙ったまま、にやにやと笑っていました。どこを見ているかわからない、なにを考えているのかわからない、人間らしくないと失礼ながらも思ってしまいます。そんな彼がふっと鼻で笑ったかと思うと──あろうことか、わたくしの首からネックレスを強奪したのです。紐が千切れる衝撃に短く悲鳴をあげてしまいました。
「ちょっと! 乱暴なことしないでほしいですわ!」
「コレ、アルカテニのじゃーん」
わたくしの背筋にお兄様の恋の失敗とは別の種類の戦慄が走りました。なぜ、そのネックレスについている腕輪がアルのものだと知っているの? 問い詰める間もなく、彼は湖の方へスキップをして去っていきました。
「返して!」
まだ地面に向かって独り言を呟いているお兄様を置き去りにして、わたくしは白百合の暴君を追いかけます。




