第12話 お前は邪魔だ
イアムの瞳は恐怖に大きく見開かれ、一点を凝視したまま震えています。そこにあったのは石床の隙間から真っ黒なインクのような塊。粘り気をもったそれがうねりながら這い出してきています。
「これ、裏路地にいた魔法生物ですわ!」
意志を持つ生き物のように蠢き、わたくしの足首に重く絡みついてきました。引き剥がそうと手を伸ばしますが、黒い泥のような魔力が肌を侵食するばかり。
殿下から放たれた閃光がわたくしの足を呑み込もうとしていた黒いインクを霧散させます。しかし、部屋を覆う闇はあまりに深かったのです。殿下の光さえも瞬時に飲み込まれていきました。
「きりがないな……!」
殿下は短く舌打ちすると、わたくしを背後に庇うようにして構えをとります。室内を埋め尽くす絶望に誰もが死を覚悟しました。
「セレーナ、助けに来ましたよ」
闇を切り裂き、純白の法衣を纏った希望が現れたのです。柔らかな銀髪と翡翠の瞳が光を通さない暗闇の中でも輝きを放っています。
「アルカテニ様!?」
ここにいるはずのない姿にわたくしは声を上げました。いつもの穏やかで慈愛に満ちた笑顔。
コツ、と石床を踏むヒールの音とともに一歩を踏み出すアル。爆発的な聖なる魔力が室内を吹き抜けます。傲慢さすら感じさせる浄化の魔力が闇の魔法生物を純白の百合へと変えていきました。
百合の香りがあまりにも強い。わたくしは甘く濃い匂いにむせこんでしまいます。
「……さすが聖女様だ。助かったよ」
「この国を守るのが私の役目ですから」
殿下の労いにアルは淡々と応じました。そんな彼に殿下は感謝というよりは試すような物言いで続けます。
「ですが、なぜこの場所に? ここは王族しか知らぬ地下牢だ」
(そうなの!? だから殿下がいらっしゃったのね)
なら、アルはどうやって……疑問を抱いていますと、アルは無言でわたくしのポケットに手を入れました。
ええ? わたくしのポケットにはひよこの人形しかありませんわよ。取り出された人形を見て、なるほどと呆れたように殿下は息を吐きました。
「マルシュお兄様の人形がどうしましたの?」
「セレーナ嬢、君は魔力がなかったね。その人形には、聖女様の魔力が隠し込められているよ……追跡のね」
驚いてアルを見ると、彼は悪戯が成功した少年のような顔をしていました。
「では、わたくしが部屋を抜け出したのもご存知で?」
「ええ。貴女に隠しごとをされて、とても悲しかったです」
帰ったらお説教ですからね、と笑う彼から先ほどまでの清らかな魔力とは違う、どろりとした魔力の圧を感じます。わたくし、手のひらで踊らされていたのね……。
拘束されていたイアムが解放され、地下牢に潜んでいた黒いローブの男たちは駆けつけた騎士団に次々と捕らえられていきます。
男たちが「お慈悲を!」と泣き叫ぶ中、一人が騎士の制止を振り切ってアルの足元へ縋りつきました。
「聖女様! どうか、どうかお救いください! もう嫌だ、解放してくれ!」
「可哀想に……残ってしまっているのね、記憶が」
アルは赤子をあやすような声で、屈んで這いつくばる男と同じ目線になります。両手を組み合わせると、空間が悲鳴を上げるように歪みます。
歪みから出現した白い光が、一瞬で長大な銀色の柄へと姿を変えます。先端には月光を弾くほど鋭く研ぎ澄まされた巨大な刃。
聖女が祈りを捧げて降臨したのは、あまりにも禍々しい死神がもつような大鎌でした。
「あ、ああ……! 聖女様、どうか、慈悲を……!」
「哀れな魂に、安らぎを与えましょう」
男の絶叫をアルの微笑が塗り潰していきます。
鎌が無慈悲な弧を描きました。音もありません。切り裂かれた男の体から溢れ出したのは鮮血ではなく、無数の薔薇。
救いを求めた男も、捕らえられていた者たちも──悲鳴を上げることさえ許されずに鮮やかな花へと成り果てました。
圧倒的な力。それは救済という名の神罰のようでした。降りしきる薔薇の中、鎌が霧散していきます。
「それが君の本性かな、聖女様」
「本性? 亡者となってしまった彷徨える魂を導いたまでです」
アルは花となってしまった者たちが残した花弁を踏みつけて、殿下のもとへ近づきます。優雅な足取りで、見覚えのある小さな紙切れを手渡しました。
それを見た殿下の顔が青ざめていきます。
「殿下、貴方のお近くに聖女の名を騙る逆賊がいるようです。ご注意ください」
聖女の忠告に騎士団はざわめき立ちました。殿下の隣で震えるイアムをアルは冷淡に見下ろしています。お前は邪魔だ──目がそう告げていました。
彼はむせ返るほど強い花の香りを纏い、何事もなかったかのようにわたくしへと手を差し出します。
「帰りましょう、セレーナ」
アルは温かく、優しく、そして何よりも恐ろしく──わたくしの心を縛りつける。本当にこれは皆にとっての救いの手なの?
差し出された手を取れずにいると、待てなかったのか強引に手を引かれます。わたくしは深淵に引き摺り込まれる感覚に襲われていました。




