夜が明ければ消える夢
「本願寺?」
目の前の桃色がふっと残像を残して視界から外れた。
「本願寺!!」
床にぎゅっと蹲った本願寺の背中は小さく震えている。何。何が起こった?何が、何が………
「本願寺、水、飲んだ?」
資料まとめをしている間本願寺は一回も水を飲んでない。こんなに暑いのに。
「っ……馬鹿野郎」
***
「誰も 知らぬ 物語
夜が 明ければ 消える夢
あなたの 頬に 触れるのは
月の涙 淡い恋
ねんね ねんね さようなら」
ゆるやかにメロディが通過していく。初めてのはずなのに懐かしいようなそんな気持ち。
待って。これ歌ってんの誰や。
「本願寺?」
光太郎の心配そうな声が上から落ちてきた。
「待ってて。水持ってくるから」
ぱたぱたと光太郎はどこかに行く。ここ、光太郎の部屋やんな。あれ、うち倒れた?今までずっとこんぐらいの徹夜も平気やったのに……
「本当、僕のこと言えないじゃんか」
光太郎が水を差しだしてくる。受け取って飲むと甘いような味が喉を通過する。
「ん、ありがと」
ぷはっと口元を拭ってペットボトルを返す。まだ心配そうに光太郎はこっちを見つめてきた。
「大丈夫やって。あー……今、何時?うち帰らな」
「一時」
………イチジ?
「え!?一時!?」
時計を見ると確かに時間は一時八分を指している。てことはうち寝てた時間13時間?ほぼ死んどるやん。
「うそん終電ないやん!うち今日家帰られへん終わった……」
綾星ちゃん家は涼ちゃんおるから泊まられへんし。心晴ちゃんは実家暮らしやし陽翠ちゃんはもってのほかやし。
「普通にうちの家泊まれよ」
光太郎があきれかえったように言った。
「いや流石にそれは……」
「人の家で13時間爆睡したやつが何言ってんだ」
それはごめんって。
「ほな……泊まるわ」
「ああ。なんかご飯作るね」
そう言ってリビングの方に消えていった。スマホを取り出してみると時間はやっぱり一時。
(まじでどないしよ…)
光太郎んちに一晩……一晩って程でもないけどさ。ってなんか……。
「ご飯、できたよ」
出てきたのは真鯛の出汁茶漬け。
数枚の真鯛の刺身を、温かいご飯の上においてそこへ熱々の出汁を注ぐと鯛の身がパッと白く霜降り状態に変わった。
三つ葉の爽やかな香りと、ピリッと利かせたわさび。出汁に溶け出した鯛の脂とともに、さらさらと流し込む瞬間の幸福感。
「んまぁ……」
「ついこの前買ってきたんだよね」
「光太郎、これお店の味やん……。あんた、ほんまに何者なん?」
夢中で出汁茶漬けを掻き込みながら、うちは思わず顔を上げた。
湯気の向こうで、光太郎は自分の分の茶碗を手に、少しだけ口角を上げている。
「ただのストックだよ。……ていうか、さっきまで死んでた奴がよくそんなに食えるね」
「死んでへんし。ちょっと魂が里帰りしてただけやし」
減らず口を叩きながらも、五臓六腑に染み渡る出汁の温かさに、強張っていた肩の力がふっと抜けていく。
「……なぁ、光太郎」
「ん?」
「さっき、うちが寝てる時……なんか歌ってなかった?」
光太郎の手がぴたりと止まった。
窓の外では、深夜特有の静寂が部屋を包んでいる。遠くで走り去る車の音だけが、ここが現実であることを辛うじて繋ぎ止めていた。
「……気のせいじゃない?」
「いや、絶対聴こえた。なんやろ、子守唄みたいな……」
光太郎は視線を泳がせ、残った出汁を飲み干すと、空になった茶碗をテーブルに置いた。
「寝言だよ、本願寺が。……なんか『さよなら』とか不吉なこと言ってたから、適当に相槌打ってただけ」
「うそつけ。あんな綺麗なメロディ、うちの寝言から生成されるわけないやん」
食い下がってみたけれど、光太郎は「はいはい、ごちそうさま」と立ち上がり、うちの茶碗まで奪うようにしてキッチンへ持っていってしまった。
流しの水音が響き始める。
その背中を見つめながら、うちはふと思い出す。
夢の中で触れられたような、頬に残るかすかな熱。
「……光太郎、ほんまにありがとうな。助かった」
「……別に」
水音に混じって、ぶっきらぼうな声が返ってくる。
彼は決してこちらを振り返らないけれど、少しだけ赤くなった耳たぶが、リビングの明かりに透けて見えた。
「シャワー、使っていいよ。着替えは……適当に僕のTシャツ貸すから」
「え、光太郎の服? ぶかぶかやん」
「文句あるなら裸で寝れば?」
「着せていただきます!」
立ち上がって彼に歩み寄る。
深夜一時の静かなワンルーム。
徹夜のハイテンションと、空腹が満たされた後の微睡みが混じり合って、いつもより少しだけ、二人の距離が曖昧になっている気がした。
「……あ、そうや」
「何」
キッチンの横を通り過ぎる際、うちは彼のシャツの裾をちょんと引っ張った。
「あの歌、また今度……ちゃんと起きてる時に聞かせてな」
光太郎は蛇口を止めた。
静寂。
しばらくして、彼はため息混じりに、けれど消え入りそうな声で呟いた。
「……覚えてたらね」
その言葉が、さっきの出汁茶漬けよりもずっと甘く、うちの胸の奥に溶けていった。
光太郎から借りたTシャツは、思った通り首元がゆるゆるで、動くたびに彼の家の柔軟剤の匂いが鼻をくすぐった。
リビングに戻ると、光太郎はソファに座って、消音にされたテレビの画面をぼーっと眺めていた。うちが隣に腰を下ろすと、彼は一瞬だけこちらを見て、すぐに視線を逸らした。
「……似合ってんじゃん」
「いや、カーテン巻いてるみたいやわ。光太郎、体でかすぎ」
冗談めかして笑ううちに、光太郎は答えなかった。代わりに、彼はリモコンを置いて、ゆっくりとうちの方を向いた。
「本願寺」
その低いトーンに、心臓が跳ねた。
「……何、改まって」
光太郎の瞳が、まっすぐにうちを射抜く。逃げ場のない、熱を帯びた視線。
「───ずっと、好きだった。……本願寺が思ってる以上に、本気で」
深夜の静寂が、一気に重圧となってのしかかる。
喉の奥がキュッとなった。光太郎はいつだってうちを助けてくれる「生意気で可愛い後輩」だったはずだ。それなのに、今の彼は、見たこともないほど男の顔をしていて。
「……光太郎」
うちは膝の上で握りしめた拳に力を込めた。
「……嬉しい。嬉しいけどな……」
「けど?」
「……うち、もう三十やで。光太郎はまだ若いやろ?九歳も離れてんねんで?」
うちはできるだけ明るいトーンを作って、誤魔化すように笑ってみせた。
「九年って長いで。うちが働き始めた時、あんたまだ小学生や。……今は勢いでそう思うかもしれんけど、光太郎にはもっと、こう、同じ時間を歩める同年代の女の子の方が……」
「そんなの関係ないだろ」
光太郎が言葉を遮った。
「九年先に生まれたのがそんなに罪なの? 僕が、本願寺の隣に立つのにふさわしくないって言いたいわけ?」
「そうじゃない。そうじゃないけど……」
うちは視線を床に落とした。
彼のまっすぐな好意が眩しすぎて、直視できない。
もしうちがもっと若かったら。あるいは、彼がもっと大人だったら。
いや、それでも駄目だ。あのテキストの散らばった勉強机の過去を光太郎にまで押し付けるかもしれん。
『あんたはその自分勝手を直さな誰にも愛されへんよ。ほんま、あほやな』
「……今日はもう寝よ。うち、まだ頭ぼーっとしてるみたいやし」
結局、うちは卑怯な逃げ道を選んだ。
光太郎は何かを言いかけたように唇を震わせたが、やがて小さく息を吐いて、背もたれに深く体を預けた。
「……わかった。おやすみ」
「おん……おやすみ」
立ち上がって寝室へ向かううちの背中に、彼の視線が刺さっているのを感じた。
扉を閉めた後、暗闇の中でドクドクと響く鼓動。
(これでええに決まっとる……うちは今までたくさん勉強してきた。間違えるわけあらへん)
自分に言い聞かせるような言い訳が、深夜の空気の中に虚しく消えていった。
めっちゃ鯛の出汁茶漬け食べたい




