薫風
時はばたばたと、それでいて残酷なほど無慈悲に過ぎ去り、いつの間にか一ヶ月が経っていた。
あんなに視界を淡い桃色に染め上げていた桜は、今ではすっかり緑色の柔らかい若葉にバトンタッチしている。枝先からこぼれる木漏れ日は日ごとに強さを増し、少し動けば汗ばむような、けれど凛としたさわやかな匂いが辺りを吹き抜けていく。
「……薫風」
隣で並んで歩いていた出帆が、不思議そうに瞬きをした。
「?何それ」
「五月の風のことだよ。初夏の、新緑の間を通り抜けてくる柔らかくて温かい風。今の時期にぴったりでしょ?」
私が笑うと、出帆は「ふーん」と気のない返事をして、私の右頬をじっと見つめた。
そこに刻まれていたはずの傷跡は、この一ヶ月でかなり薄くなった。跡が残るかも』と言われたときは、血相を変えた出帆が「今すぐ杏花をぶちのめしに行く」と武器を手に取りかけて、止めるのが本当に大変だった。
けれど、幸いにも私の回復力と最新の治療のおかげで、この調子なら元通りになりそうだ。
「結局どうなの。その……徒花姉妹。あと、譲羽さん?」
出帆が、どこか探るような、それでいて少しだけ心配そうな声で尋ねる。
「普通に訓練してるよ。杏花とも立花とも喋るようになったし、譲羽さんとも。……最初はあんなにギスギスしてたけど、今はもう、同じ目的を持つ仲間だって思えるようになったかな」
一ヶ月という時間は、張り詰めていた空気を溶かすには十分だった。
杏花は以前より迷いが消えて動きが良くなったし、妹の立花はもともと高かった練度がさらに洗練され、もはや私でも隙を見つけるのが難しいほどだ。
「へぇ、仲良くやってるんだ」
出帆は少し意外そうに目を細めて、手元の缶コーヒーを一口啜った。
かつて彼が杏花に対して剥き出しにしていた敵意や警戒心は、今は凪いだ海のように静かだ。彼はただ、私の安穏を脅かすものが消えたことを、彼なりの方法で受け入れようとしている。
「陽翠の実力だと、彼女たちとは釣り合わないかもって、水滝原さんが言ってたよ。期待値が高すぎて、僕達二人をどうチームに組み込むか、上層部もかなり悩んだみたいだ」
「そうかな。……私からすれば、二人の研ぎ澄まされた才能には、私の方が焦らされるくらいだよ」
不意に風が吹き抜け、青葉がさらさらと音を立てて波打つ。
数ヶ月前、鉄錆と血の匂いがどんよりと漂っていたこの世界で、今はただ、生命力に満ちた初夏の匂いだけがした。
「……譲羽さんは?」
「譲羽さん、いつも通り明るいよ。すごく元気で、私たちのムードメーカー。でも……時々、何かを遠くから見守っているみたいな、不思議な顔をするんだよね。なんて言えばいいのかな。慈しんでいるようで、それでいて、ひどく遠い場所から私たちを見ているような……」
譲羽皐月さんは、私と目が合うと、いつも形容しがたい表情を浮かべる。
励まされているようにも感じるけれど、その奥底に、得体の知れない「哀れみ」の色が混ざっている気がして、私は少しだけ胸がざわつくのだ。
「へぇ……。まあ、陽翠が笑えてるなら、それでいいけど」
出帆の手が、不意に私の頬に伸びた。
かつて傷跡があった場所を、熱を持った指先がそっとなぞる。慈しむようなその感触に、心臓の鼓動が不規則に跳ねた。
「消えてよかった。……本当に、これ以上陽翠の体に傷が増えるのは、耐えられない」
その瞳に宿る熱っぽさと、切実な響き
。
出帆も私も、背負っているものの重さを知っている。記憶を無くした出帆の手に取ったあの日から、私たちの運命は、普通の17歳からは大きく逸れてしまった。
「ねえ、陽翠」
出帆が、真剣な眼差しで私を見つめる。
「この戦い、終わらせられると思う?」
その問いに、私は強く頷いた。
心の奥底で、ずっと期待している。数千年の歴史の中で積み上げられてきた絶望を、この手で叩き切って、悲しい連鎖を終わらせる。これまでの誰も成し遂げられなかったとしても、私たちなら。
「ハッピーエンド、期待してるよ」
「そうだよね。頑張らなくちゃ。私たち二人で」
ふわりと、またさわやかな風が二人の間を吹き抜けていった。
***
白銀陽翠と流凪出帆。
終焉具という、神の業とも悪魔の呪いともとれる力を発現させた17歳の二人。
周囲の浄化師たちの中には、その圧倒的な力に嫉妬する者もいれば、英雄が現れたと手放しで羨む者もいる。
でも私は──譲羽皐月だけは、どうしてもそんな風には思えなかった。
(この子が、白銀陽翠さん……)
初めて彼女を見たとき、なんて綺麗な子だろうと思った。
造作の美しさはもちろんだが、それ以上に、全身から溢れ出す雰囲気がどこまでも清らかで、透き通っている。
真っ直ぐな瞳は強い意志を持って前を向き、光をキラキラと反射させている。ひらひらと空を舞う彼女の終焉具──羽衣の残光も相まって、まるで幻想的な蝶々を見ているような心地になった。
それだけなら、私も「すごい新人が来たなー」と、無邪気に感心して終わっていただろう。
けれど、現実は残酷だった。
終焉具を発現させた者の寿命は、本来の四分の一になる。
その機密事項は、全浄化師に非公式ながら通達された。つまり、目の前で眩しく笑うこの子たちは、どんなに長く生きられたとしても、三十歳前後までしか生きられないということだ。
余命宣告。
その重苦しい響きが。
どうしても、過去の自分に重なってしまった。
***
「月夜の虹にぶら下がる影。ひらりはためいて、透明な共鳴を──」
かつての私。病室の、古びたアルミサッシのはまった窓から、外の景色を眺めては小さなメロディを口ずさんでいた。
幼い頃から高校生になるまで、私はずっと病の床に伏していた。身体がひどく弱く、外の世界はいつも窓越しに眺めるだけの絵画だった。今こうして浄化師として戦場に立てていること自体、奇跡以外の何物でもない。
学校に通うことも、友達と全力で走ることもできず、ただただ退屈で、暇で。
病院で仲良くなった子たちが、一人、また一人と「向こう側」へ旅立っていくのを、私は何度も見送ってきた。
最初は悲しくて、声が枯れるまで泣きまくった。けれど、あまりにも多くの別れを経験するうちに、悲しみすらも摩耗し、やがては飽きてしまった。
『長くて、二十歳でしょう』
医者からそう告げられたときも、私はどこか他人事のように「わー、おーまいがー」なんておどけて見せた。
死が身近にありすぎて、逆に実感がなかったのだ。自分の命を、道端に落ちている石ころのように、ひどく軽々しく見ていた。
ところが、理由は解明されていないけれど、私はある日を境に急激に回復した。
死ぬはずだった私が生き残り、あろうことか浄化師になった。
それでも、根底にある「命を軽く見る」癖は治っていなかったはずだった。自分の命も、他人の命も、所詮は移ろいやすいものだと。
なのに。
なぜか、白銀さんと流凪くんにだけは、同情してしまった。
「可哀想だ」と、心の底から思ってしまったのだ。
かつての私と同じように、若くして「終わり」を突きつけられながら、それでも誰かのために笑い、戦おうとするその姿が。
眩しければ眩しいほど、その裏側に伸びる影の濃さに、胸が締め付けられる。
あんなに綺麗な蝶々が、わずかな時間しか羽ばたけないなんて。
神様がいるのなら、なんて意地悪なんだろうと思う。
***
「陽翠ちゃん」
今日の訓練が終わり、帰路につこうとする彼女を呼び止めた。
振り返った陽翠ちゃんは、夕闇の中でさえ発光しているような、純粋な笑顔を私に向ける。
「あ、譲羽さん! お疲れ様です」
その屈託のない声に、胸がズキリと痛む。
私は彼女に何を言えるだろう。未来を奪われた彼女に、どんな言葉をかければ救いになるだろう。
同情なんて、彼女は望んでいない。哀れみなんて、彼女の輝きを濁らせるだけだ。
けれど、どうしてもこれだけは伝えたくて、私は精一杯の笑顔を作った。
「……頑張ってね。私、全力で応援してるから」
「はい! ありがとうございます!」
元気よく応えて、彼女は流凪くんの待つ方へと駆け出していく。
遠ざかる二人の背中。初夏の風に揺れる髪。
私はただ、祈るような気持ちで、その小さくなっていく後ろ姿を見つめ続けていた。
いつか訪れるはずのハッピーエンドが、彼女たちの残された時間に、少しでも多くの光をもたらしてくれることを。
そして、その結末が、どうか残酷なものではありませんようにと。
五月の風が、私の頬を優しく、けれどどこか寂しげに撫でて通り過ぎていった。




