宙ぶらりんな桜
桜の花びらが、まるで誰かの未練のように頼りなく宙を舞う季節。
春の陽気はどこまでも優しく、残酷なほどに世界を美しく彩っている。
私は、クローゼットの中で一番綺麗で、一番「私らしくない」かもしれない落ち着いた色味のワンピースを選んだ。鏡の前で一筋の乱れもないように丁寧に髪を梳かして。
指先から伝わる髪の冷たさが、今日という日の重みを静かに伝えていた。
駅までの道すがら、見上げる空は抜けるように青く、冬の厳しさを忘れさせる温かな風が頬を撫でる。
電車に揺られ、人混みの中をすり抜け、私が辿り着いたのは、都会の喧騒を遠くに置いた、灰色の石が整然と並ぶひんやりとした場所。
麗奈と玲くん。二人の名前が刻まれた墓石を前にすると、時間の流れがそこだけ淀んでいるような錯覚に陥る。
「……麗奈、玲くん。来たよ」
私はそっと、墓石の前で手を合わせ、瞼を閉じた。
まぶたの裏に広がるのは、いつだってあの日の景色。
「さよならだけが人生だ」
かつて誰かが詠んだその言葉が、今の私には酷く重く、そして真実味を帯びて響いてくる。出会いがあれば別れがある。そんな使い古された言葉で片付けられるほど、私たちの生きてきた時間は薄っぺらなものではなかった。
(麗奈と同い年になっちゃったなぁ……)
ふいに漏れた思考に、胸の奥がきゅっと音を立てて軋んだ。
二人と肩を並べて歩き、馬鹿げた冗談に笑い転げていたあの道は、私たちの未来は永遠に続く一本道だと、疑う余地もなく信じていた。
空が文字通り泣き崩れたあの雪の降る冬。
そして、あまりに美しすぎて毒のようだった、星空の降る夏。
二人は、それぞれの季節の中に魂を置いていったみたいだった。
「……見て、麗奈。玲くん。今日のために選んできたんだよ」
私はバッグから、丁寧に包んできた花束を取り出した。麗奈の明るさに似た鮮やかな黄色と、玲くんの穏やかさを象徴するような深い青。二人のイメージにぴったりな、凛とした花たち。
墓石に供えると、色鮮やかな花びらが、春の風に誘われるように小さく揺れた。
「私、十七になったよ。麗奈が最後に見せてくれた笑顔の、あの歳に……追いついちゃった。変だよね、あの日、麗奈はあんなにお姉さんに見えたのに。今の私は、ちっとも大人になれてない気がするよ」
二人を過去に置き去りにして、私だけが年をとり、この温かな春の光の中に立っている。
その事実に、言いようのない申し訳なさと、震えるような寂しさが込み上げた。
寂しさに身を任せて立ち止まることは、二人の意志を裏切ることになる。私はそれを、痛いほど理解していた。
「玲くん。私、あの後、約束通り朝霧宮公園に行ったんだよ。向日葵がね、まるでお日様を追いかけるみたいに一斉に咲き誇っていて、空もどこまでも澄んでいた。あの景色、玲くんの隣で、一緒に見たかったな……」
あの時感じた柔らかい風を思い出す。
私の心には、夏だというのに雪が降り積もっていて。絶望という名の冷たい雪。
それをあの温かい風は全部さらって溶かしていった。
耳を澄ませてみる。
遠くで公園を走り回る子供たちの無邪気なはしゃぎ声。枝先で春を謳歌する鳥の囀り。岩を噛む川の音。
季節が巡り、時が流れ、命が繋がっていく音。
この音が聞こえる限り、私の仕事は終われない。
街にはまだ、二人の命を奪ったような、禍々しい魔物の残滓が音もなく漂っている。人々の幸せな日常を蝕もうとするその影を、私は全部、この手で終わらせなければならない。
「……行かなきゃ。みんなが待ってるから」
私はもう一度、深く、深く頭を下げた。
きびすを返すと、磨き上げた靴の先が、地面に降り積もった桜の花びらを優しく踏みしめた。その感触さえも、今は愛おしく感じられる。
ふと、背後に気配を感じて振り返る。
舞い散る桜の吹雪の向こう側。光の加減か、あるいは私の願望が見せた幻か。
二人の笑い声が、風に乗って聞こえたような気がした。
「陽翠、頑張ってね! ずっと見てるから!」
麗奈の、弾けるような、太陽みたいな声。
「無理しないでくださいよ、陽翠さん」
玲くんの、少し呆れたような、けれどどこまでも優しい声。
私は、溢れそうになる涙を堪えて、少しだけ口角を上げた。
「さよならだけが人生だ」としても。
その「さよなら」の後に続く道を、私は歩かなければならない。
二人が守りたかった、この美しくも儚い春を、私はもう少しだけ、大切に歩いてみよう。
絶望に立ち止まるのではなく、二人が愛したこの世界を、私はこの目で見届け続けたい。
(次は……二人が見たことのない、もっと遠くの景色を教えに来るからね)
心の中でそう静かに約束して、私は再び、人混みの喧騒へと背を向けた。
踏み出す一歩は、先ほどよりも少しだけ、力強くなる。
いつかのおわりまで今を大切に。




