咲くことのない花に期待を
じくじく痛い頬のガーゼを撫でながら私は家に帰る。
「出帆、なんて言うかな……」
「白銀さん」
後ろから凛とした声に呼び止められた。長いふわふわの髪の毛が揺れて春色の影を地面に落とす。
「立花……さん?」
「あの……すみません。話をしたくて」
とりあえず私達は公園に移動した。そして緑色の色あせた木のベンチに腰掛けた。
「えっと……杏花さんは私のことを知ってるの?」
「はい……」
そう言って立花さんは語り始めた。
***
私は一年前まで天才って呼ばれてたんです。身体能力も高くて武器の扱いも長けてた。水晶の力もあって新人の中ではかなりたくさん魔物を祓ってました。
だけど杏花は……向いていなかった。武器も技も上手く扱えなくて遠隔の爆弾と鏡花水月だけしか会得できませんでした。
「立花ちゃんは凄いね。どんどん強くなってる」
「君はクインテットの継手にもなれる」
色んな人にそう言って貰えた。うれしかったんです。私なんかに才能があるなんて。私なんかが必要とされているなんて。
だから、頑張った。頑張って頑張って……死ぬほど努力しました。小柄な身体でも扱いやすい対の扇。音で空気の震えがわかる鈴。腕の長さと筋肉量を誤魔化す大きな袖。
でも私が頑張れば頑張るほど。褒められれば褒められるほど杏花は評価されなくなっていったんです。
そして、白銀さんと流凪さんがきたんです。
「聞いた?新しい白銀陽翠っていう子と流凪出帆って子。まだ16才なのに凄いよね」
そして。私も二人の影に隠れて埋もれていった。
「立花!私はできないけど立花は凄いから!いつか……いつか。鈴蘭のことを殺した魔物を二人で祓おう」
鈴蘭……早乙女鈴蘭。私達の一つ上で昔から凄く仲が良かったんです。
なのに。なのに。鈴蘭は魔物に襲われたんです。桃は綺麗に咲いていたのに。空は青かったのに。鈴蘭の復讐をするために私達は浄化師になったんです。
鈴蘭が通うことになった学校に……魔物が住み着いてたんです。
青藍学園。白銀さんが四眷属を祓い終焉具を発動させた場所。
もともと私と杏花はその任務に行く予定でした。青藍学園なら。そこに住み着く魔物は絶対に鈴蘭のこと殺した魔物だって。
でも……私達はその任務にはいけませんでした。
あなたが……新たなる天才、白銀陽翠と流凪出帆がいたから。
そして四眷属を祓って終焉具を発動させて。
希望の光の二人が居て元天才の私は何もなくなっちゃったんです。
***
「……終焉具。その言葉を聞くたびに、杏花は自分の存在意義を否定されたような顔をしていました」
立花さんは、膝の上で白く細い指をぎゅっと握りしめた。その指先には、先ほどまでの鮮やかな扇の扱いの名残はなく、ただ震えている。
「あの学園の任務から外された日、杏花は部屋に引きこもって泣き続けました。私たちが一年間、血の滲むような思いで鈴蘭の仇を探して、ようやく掴んだ手がかりだったのに。『実績のある新人に任せるのが最善だ』……上層部のその一言で、私たちの執念はゴミ箱に捨てられたんです」
夕暮れ時の公園。滑り台の影が長く伸びて、私たちの間に冷たい境界線を引いている。
「私たちは、あなたたちの活躍を報告書で嫌というほど見せつけられました。四眷属を討伐し、誰も成し遂げられなかった終焉具の覚醒。……それは素晴らしいことだと思います。世界にとっては。でも、杏花にとっては違った。自分たちが命を懸けて追い求めた『仇』を、会ったこともない年下の、才能に恵まれた『天才』があっさりと、しかも華々しく片付けてしまった」
立花さんが顔を上げる。その瞳には、私への憎しみではなく、もっと深く重い、底知れない喪失感が溜まっていた。
「あの日から杏花は不格好な爆弾を作っては、自分を追い込むように訓練して……。でも、やればやるほど、あなたという『光』との距離を思い知らされるだけだった」
「だから……あんなに、私を」
私の問いに、立花さんは小さく頷いた。
「彼女は、あなたを傷つけたかったんじゃないんです。あなたの向こう側にある、自分たちの努力を無価値にした運命を壊したかったんだと思います。……でも、それはただの八つ当たりで、最低な行為です。白銀さん、本当にごめんなさい」
立花さんはベンチから立ち上がり、深く、深く頭を下げた。
「杏花は処罰を受けるでしょう。でも、どうか……境界のことも、私たちの執念も、ただのわがままだと思わないでほしい。私たちは、あなたのように特別になれなかった。ただ、それだけなんです」
彼女の背後に落ちる「春色の影」が、どこか寂しげに揺れた。
私は頬のガーゼに手を当て、じくじくと疼く痛みを感じながら、彼女の言葉を反芻する。
私が守った人。私が祓った魔物。その裏側で、行き場を失った誰かの「想い」がこうして牙を剥くことがあるなんて、想像もしていなかった。
「立花さん。……私、」
言いかけた言葉は、風にかき消された。
家に帰れば、出帆が待っているだろう。私の怪我を見て、彼は何と言うだろうか。
沈みゆく夕日が、公園の砂場を深い海底のような群青色に染めていく。
立花さんの震える肩越しに見える景色が、まるで水槽の底から水面を見上げているようにゆらゆらと歪んで見えた。
「……待って。立花さん」
立ち去ろうとする彼女の背中に、私は掠れた声を投げた。
じくじくと痛む頬の傷。そこに貼られたガーゼが、まるで深海に沈んだ白い不純物のように思えてくる。
「私たちが……私が、あなたの居場所を奪ったの?」
私の言葉に、立花さんは足を止め、ゆっくりと振り返った。その瞳は、凪いだ海のように静かで、それでいて底知れない冷たさを湛えている。
「奪った……なんて、そんな傲慢な。……世界は最初から、あなたの味方だった。ただ、それだけのこと。私たちは、その『選ばれなかった泡』に過ぎないんです」
彼女は自嘲気味に口角を上げた。その笑みは、ひび割れた貝殻のように危うい。
「私は天才だったときから殺されてた……。私を殺しちゃった期待の言葉とか……聞こえないように笑ってるんです」
唐突に紡がれたその言葉に、私は息を呑んだ。
「かつての期待も、注がれた賞賛も、今の私にとっては私を締め殺すための鎖でしかない。白銀さん、あなたが光り輝くたびに、私の耳元では『どうして君じゃないんだ』っていう幻聴が響くんです。だから私は、心が死なないように、何も聞こえないふりをして笑う術を覚えた。杏花があなたの顔を傷つけたのは、その『聞こえないふり』すらできなくなるほど、あなたが眩しすぎたから……」
泡。
その言葉が、耳の奥でぷくぷくと弾けた。
私が青藍学園で終焉具を手にして希望を掴んだその先で。
彼女たちは、暗い海の底で、届かない光に手を伸ばして溺れていた。
私がやったことは誰かにとってはとても不快で。掴み取って積み上げてきたものは誰かが下敷きになっていて。
「……あなたはこれからも、光の中を歩いてください。私たちは、暗い底で……鈴蘭のいないこの世界を、ただ漂うだけだから」
立花さんはそう言い残し、春色の影を引きずるようにして去っていった。
一人残されたベンチ。風が吹くたび、公園の木々がざわざわと波の音を立てる。
私はふらつく足取りで、家へと向かった。
街灯が点り始める。
すれ違う人々、笑い声、車の排気音。すべてが水の外側の出来事のように遠い。
「ただいま……」
玄関のドアを開けると、慣れた気配がそこにあった。
「おかえり、陽翠。……どうしたの、その顔」
出帆が駆け寄ってくる。
出帆の瞳に映る私は、きっと酷く惨めで、滑稽な姿をしているだろう。
誰かを救うための力が、誰かの心を殺していた。
その矛盾が、喉の奥に冷たい海水のようにせり上がってくる。
「……出帆。私、分からなくなっちゃった」
「……どうしたの」
「私が私でいる限り……。誰かが、ずっと海の底で泣き続けるの?」
頬の傷が、今度は熱を持ったように脈打った。
出帆の手が、私の肩に触れる。その体温だけが、この深く暗い海底で唯一、私を現実へと繋ぎ止めてくれる錨のように感じられた。
こぼれ話
浄化師の上層はクインテットや鹿目さんではなく政治的にそのことを知るごく一部の人間です。その人達は浄化師ではなく国の偉い人たちだと思っておいてください。




