大凶明媚
極彩色の翅を震わせ、銀色の鱗粉を夜の帳にぶちまける。地に落ちたその輝きは、まるで砕け散った星の破片のように、昏い森の地表に冷たく冴えわたる道標を描き出していた。
「零蝶」
低く、けれど鼓膜を撫でるような芳醇な響き。
「はい。……明媚様」
忘れ去られ、深い眠りについたはずの古びた洋館。その最奥、時が止まったような静寂の中に、一人の女性が佇んでいた。
腰まで届く長い黒髪は、毛先にいくほど淡い銀色が混じり、漆黒の夜空を横切る天の川のようにたおやかに流れている。
陶器のように滑らかな白い肌。その奥に嵌め込まれた瞳は、一切の光を撥ね付ける無垢な「黒」を宿した魔物の深淵。
大凶明媚。
千五百年という気の遠くなるような歳月すら、彼女の美しさを研ぎ澄ます砥石に過ぎなかったのか。その姿はあまりに鮮烈で、残酷なまでに美しい。
「戦況が大きく動いている。」
「仕掛けますか?」
「いや。向こうは必ずこちらへ来るだろう。善人……浄化師にはお前の人形を破壊できない。愚かな浄化師がこちらに来るのを待ってやろう」
小さな人形を弄ぶ。
「浄化師の中で、二人が終焉具を発現させたと聞いた。夕憐香夏姫以来の忌々しき発現……。幻蝶谷で、お前は奴らと遭遇したそうだな?」
「……はい」
「なぜ、息の根を止めなかった?」
刹那、あたりの空気が鉛のように重く沈み込む。雨を孕んだ雲のような湿り気と、毒を煮詰めたような甘ったるい芳香が、逃げ場のない霧となって零蝶の肌を締め上げた。
「申し訳ございません。断鎖者の、いのりの毒を喰らい……」
「無能が」
冷徹な一言が、鋭い氷柱のように空間を貫く。
「それでもお前は四眷属の一角か? 第一、なぜいのりをこの長い月日の間、捕らえることができずにいる? なぜ逃がした? なぜお前は、これほどまでに単純なことさえ完遂できない? ……なぜ未だ、鹿目愁の居所が掴めないのだ?」
ぱきり、と乾いた音を立てて零蝶の肌に亀裂が走る。主の怒気が物理的な圧力となって、その身を砕こうとしていた。
「白銀陽翠……あの女は、どうにも癪に障る」
明媚は、肺腑に溜まった苛立ちを吐き散らすように吐露した。
「もういい。下がれ」
「……失礼いたします」
影に溶けるように零蝶は屋敷を後にした。
しかし、その胸中に渦巻く激情は、もはや静寂で蓋をできるものではなかった。
「ああああああああ!!!!」
狂乱の叫びが夜の森を震わせる。
零蝶が腕を振るうたび、数百年の歴史を刻んだ巨木が紙細工のように容易くへし折られ、なぎ倒されていく。破壊の嵐の中で、彼女は呪詛のようにその名を口にした。
「っ………白銀陽翠っ!! あいつのせい
で……!!」
人間であった頃も、魔に堕ちた今も。あいつの影に、私は一生狂わされ続けるというのか。
どんなに憎悪をぶつけようとも、あの透徹とした綺麗な顔は決して崩れない。泥を投げても汚れ一つ付かず、手の届かない場所で絶対的な幸せを享受している。
その「純白」への嫉妬が、零蝶の心根をどす黒く、より深く腐食させていった。
「白銀陽翠……あいつさえ、あいつさえいなければ!」
あいつさえいなければ。
私は袴田勿忘と居られたかもしれないのに。魔物に成らなかったのに。姉とも……みらんとも。
激情に駆られた零蝶の指先から、おびただしい数の蝶が溢れ出した。それは先ほどまでの幻想的な輝きとは似ても似つかない、毒々しい赤黒い紋様を浮かせた、飢えた獣のような羽ばたき。
「行け! 塵ひとつ残さず、あいつの痕跡を喰らい尽くせ!」
放たれた蝶の群れは、怒りの伝播となって周囲の木々へと殺到する。
数百年の静寂を湛えていた巨木たちは、蝶が触れた先から腐食し、乾いた音を立てて次々と自重に耐えかね倒壊していった。土煙が舞い、森の静寂が暴力的な破壊音によって塗り潰されていく。
なぎ倒された倒木が、まるで無残に横たわる骸のように地面を埋め尽くす。その荒廃した光景の真ん中で、零蝶は肩を上下させ、呪詛を吐き捨てた。
「人間だった頃も、そして今も……。どうしてあいつだけが、あんなにも清らかでいられるの?」
脳裏に焼き付いて離れないのは、陽翠の揺るぎない、鏡面のように澄んだ瞳。
どれほど絶望を叩きつけられても、その魂は一滴の泥に染まることすら拒む。その絶対的な「正しさ」こそが、今の零蝶にとっては毒よりも鋭く心を切り刻む刃だった。
「見つけ出してやる……。その綺麗な顔が絶望に歪むまで、何度でも、何度でも追い詰めてやるから……っ!」
零蝶が再び腕を振るうと、散らばっていた蝶たちは一斉に方向を変え、夜の闇のさらに奥、陽翠の残り香を求めて四方八方へと散っていった。
銀色の鱗粉はもはや道標ではなく、獲物を絡め取る蜘蛛の糸のように、森の闇を密やかに侵食していく。
静かになった森。
『待って。瑠璃歌』
背後から声がした。人間時代の名前を呼ばれると鳥肌が立つ。
「みらん……」
自ら殺した姉の亡霊かそれとも今まで奪った命の復讐なのか。
『あんたは絶対に報いを受けるよ。絶対に。あんたは魔物に成ったときから……人を呪った時からずっとずっと満たされないことは決まったから』
背後に向かって爆発を仕掛けたが何も手応えはない。真っ黒な闇が広がっているだけ。
「もう、どうなってもいいや」
どうなってもいいから。どうなってもいいから。




