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月が満ちる

「月乃、あんたはたくさん勉強しいや。たくさん勉強して良い高校行って大学行って弁護士なるんや」


その言葉は、子守唄にしてはあまりに鋭く、呪文にしてはあまりに湿っぽかった。

物心ついた時から、うちの耳元には常に母の「理想」がへばりついていた。


それはまるで、剥がそうとすると皮膚まで持っていかれる強力な粘着テープのようで、うちはいつしか剥がすことさえ諦めてしまっていた。


「なんなんこの点数!」


中学一年、最初の期末テスト。返ってきた答案用紙の端っこ、ほんの少しだけ欠けた満点。平均点よりずっと高いはずのその数字を見て、母は顔を真っ赤にして怒鳴った。


「いろんなものにちょいちょち手ぇ出すんやなくて勉強しろ!」


ギター、陸上、バイオリン、吹奏楽。うちは器用だった。触れればそれなりに形になり、走れば風を追い越した。


何にでも秀でていたけれど、それは母に言わせれば「集中力の欠如」でしかなかった。一つを極める暇があるなら、その時間を全て、母の学歴というコンプレックスを埋めるための砂利に変えろと言われているようだった。


「スマホなんでこんな見とんねん!」


「……違う、これ」


「言い訳すな!」


本当は、母が好きだと言っていたレモンケーキのレシピを調べていた。誕生日に驚かせたくて、動画を何度も止めて、手元の生地と見比べていた。


けれど、反論しようとすると喉の奥がキュッと締まって、熱い塊がせり上がってくる。悪いことをしていないのに涙が出るのは、悔しいからじゃない。自分の存在そのものを否定されているような、そんな底冷えする恐怖のせいだった。


「あんた、英語の成績悪すぎやろ!恥ずかしい!」


その言葉を聞いた瞬間、うちの中で何かが「ぷつん」と音を立てた。


おかん、あんたはうちが可愛いんちゃう。うちの将来を心配してるんちゃう。


ただ、近所の人や親戚に「娘さんは優秀ですね」って言われたいだけやろ。うちの成績は、あんたが着飾るためのアクセサリーなんや。


おかんは何もせえへんかった。うちが夜中までペンを動かしている間、リビングでテレビを見て笑っていたのは誰?分からない問題を聞いても「そんなん自分で考え」と突き放したのは誰?


なのに、結果が良ければ「うちが厳しくしたおかげ」、悪ければ「あんたの努力が足りんせい」。


何がしたいん?どうして欲しいん?うちは、あんたを満足させるための人形でい続けなあかんの?


「……きも」


一人きりの部屋で、絞り出すように呟いた。叩きつけられた英語のテキストをゴミ箱に放り込む。どうせ後で回収する。見つかればまた、あの金切り声が飛んでくるから。


机の上には、山積みの参考書。関西で一番頭がいいと言われる、おかんの母校。おかんが挫折した場所。そこに行けと、呪いのように繰り返される。


塾は週四。残りの日は吹奏楽と習い事。その合間に、クラスメイトとの「普通」を装うための人付き合い。


おかんのおかん、つまりばあちゃんは、おかんの勉強に無関心やったらしい。その反動が、全部うちに降ってくる。


「黙ってられたほうが、ええに決まってるやん……」


隣の席のあの子は、うちよりずっと点数が低い。けれど、彼女の母親はテストの後に「お疲れ様、難しかったね」と笑って、彼女の好きな可愛い服を買いに連れて行く。彼女の頬には、うちには許されない鮮やかなチークがのっていた。


ずるい。羨ましい。うちの方が頭がいいのに。うちの方が才能があるのに。


その子が眩しすぎて、直視できなかった。うちの世界は、灰色の文字が並ぶテキストの中にしかなかったから。


中学卒業の日、うちは最低限の荷物だけを持って家を出た。


行き先なんてどこでもよかった。ただ、あの家じゃないどこかへ。


「浄化師」という職業を選んだのは、消去法だった。資格はいらない、体一つあればいい。運動神経には自信がある。何より、給料が良い。自立するにはもってこいだった。


それからの生活は、血と泥と、そして「感謝」にまみれていた。


「ありがとう、命の恩人です」


「月乃さんがいてくれてよかった」


泣きながら手を握られるたび、うちは心のどこかで冷めた視線を送っていた。嬉しいなんて、一ミリも思わなかった。


十五年間。感情を押し殺し、母の顔色を伺うためだけに神経を尖らせてきた結果、うちの心は摩耗しきって、空っぽになっていた。


自由は手に入れた。好きな時に好きなものを食べ、好きなだけ寝る。誰にも何も言われない。けれど、空っぽの器に何を注いでも、底に穴が開いているみたいに虚無が漏れ出していく。


うちは、終焉具なんて出されへん。


浄化師としての力は強い。身体能力も高い。けれど、終焉具を顕現させるために必要な「魂の叫び」も「守りたいという強烈な意志」も、うちにはない。


うちはただ、要領よく魔物を祓っているだけの、空っぽの戦闘機械だ。

***

「なんでこんなこと、今さら思い出してんねやろ」


目の前の紅茶は、すっかり冷めていた。立ち上っていた湯気は消え、表面には膜が張り、口に含むと嫌な渋みが舌に残った。


どれだけ時が経っても、あの「灰色の部屋」の空気はうちを追いかけてくる。


明るく振る舞うのは得意になった。何も感じないのを悟られないよう、大きな声で笑い、オーバーなリアクションで場を繋ぐ。そうしないと、自分が透けて消えてしまいそうだったから。


「なんか、疲れたな……」


外では、最終決戦の足音が近づいている。


うちは指導役として、平浄化師たちの訓練も見ている。真っ直ぐで、眩しくて、何かに懸命になれる人を見ていると、時々、胸の奥がチリチリと焼けるような感覚になる。それが嫉妬なのか、あるいはもっと別の何かなのか、うちには分からない。


もし、この戦いが終わったら。


大凶明媚が祓われて、この世から魔物が消えて、浄化師という仕事がなくなったら。


うちは何をすればいい?


また、あのテキストが並ぶ机に戻るのか?それとも、どこへ行けばいい?


目標のない自由は、おりの中にいた時よりもずっと、うちを不安にさせた。


「本願寺」


聞き慣れた声に顔を上げると、そこには息を切らせた光太郎が立っていた。手に持った刀は今までより一層眩しく輝いている。


「さっきのフォーム、もう一回見てくれるか?どうしても、あともう少しで何かが掴めそうなんだ」


光太郎の瞳は、真っ直ぐにうちを捉えていた。母の濁った期待でも、通行人の無関心な視線でもない。一人の人間として、うちを必要とする熱量。


「……あんたねぇ。今は休憩中や言うてるやん」


いつものように、わざとらしくおどけたトーンで返す。けれど、立ち上がったうちの指先は、かすかに震えていた。


守りたいものなんてない。強い気持ちなんてない。そう思っていたはずなのに。


目の前で、不器用に、でも必死に生きようとしている彼を見て、冷めきったはずの紅茶のようなうちの心に、ほんの少しだけ熱が戻るのを感じた。


「しゃあないなぁ。一回だけやで?うちは指導料高いんやから」


うちは空のカップを置き、隣に並ぶ。


終焉具が出せないのは、失くしたからじゃない。まだ、出すための「自分」を見つけていないだけかもしれない。


母の操り人形でもない、浄化師という記号でもない。


ただの「月乃」として。


もし、この戦いが終わっても。


みんなが笑っていられる世界があるなら、そこには、うちの居場所も一箇所くらいはあるのかもしれない。


うちは大きく息を吸い込み、いつもの「完璧な笑顔」ではなく、少しだけ引き攣った、不恰好な本物の苦笑いを浮かべた。


「行くよ。あんたの悪い癖、根こそぎ直したるから」


空っぽの胸の奥で、何かが小さく、でも確かに脈打った。それはまだ「強烈な意志」と呼ぶには程遠いけれど。


冷めた紅茶を飲み干した後のような、ほろ苦い決意だった。

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