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距離ゼロ㎝

「出帆、いってらっしゃい」


「うん。いってくる」


出帆は最終決戦となるであろう戦いに備えるための訓練をしにいった。


最近はクインテットの人達も暇ができてきて一般浄化師の訓練や自分自身の訓練がでにるようになってきた。


今日は出帆だけで私は留守番。


遠ざかっていく背中を見送ってドアを閉めた。


「よっし!じゃあやるかっ!」


今日は二月十四日。


バレンタインデーだ。


キッチンに立つと、少しひんやりとした空気が私のやる気を煽った。


「待っててね、出帆。驚かせてあげるんだから」


まずはチョコケーキ。


濃厚なガトーショコラにするつもりだ。ビターチョコを丁寧に刻み、湯煎で溶かしていく。


ボウルの中でツヤを帯びていく黒色を見つめていると、出帆の真っ直ぐな瞳を思い出して、少しだけ心拍数が上がった。


メレンゲを作る腕は、毎日の家事で鍛えられている。角がピンと立つまで泡立てて、生地と合わせる。型に流し込んでオーブンに入れれば、数分後には甘く香ばしい匂いが部屋中に広がり始めた。


「よし、次はマカロン……こっちが本番だよね」


正直、マカロンは難しい。


粉糖とアーモンドプードルをふるいにかけ、慎重にマカロナージュ。絞り出した生地の表面が乾くのを待つ間、私は窓の外を眺めた。


出帆は今頃、厳しい訓練の真っ只中だろう。


世界の命運を懸けた戦いが近づいている。彼はいつだって自分を追い込んで、誰よりも先頭に立とうとする。


その背中を支えるために私にできることは、戦うことだけじゃない。


こうして、彼が帰ってくる場所を甘い匂いで満たしておくこと。 


「……焼けた!」 


オーブンから取り出したマカロンには、綺麗なピエができていた。


淡いピンクとココア色の二色。間にはガナッシュをたっぷりと挟む。


時計を見ると、もうすぐ出帆が帰ってくる時間だ。


私は急いでエプロンを外し、鏡の前で髪を整える。


カチャリ、と玄関の鍵が開く音がした。


「ただいま、陽翠。……なんだか、すごく甘い匂いがするんだけど」 


少し疲れた顔、でも私を見て柔らかく緩む彼の表情。 


私は最高の笑顔で、彼を迎え入れた。


「おかえり、出帆! 今日は特別な日なんだよ?」


二人のバレンタインは、これからが本番だ。


「わあっ!いい匂いの正体はこれ!?」


出帆は少し照れくさそうに笑いながら、食卓に並んだチョコケーキとマカロンを見つめた。訓練帰りの彼は少し疲れているはずなのに、その目はキラキラと輝いている。


「さあ、食べてみて。今日のために練習したんだから!」


私が差し出したフォークを手に取り、彼はまずガトーショコラを一口、口に運んだ。


「…………っ」


彼の手が止まる。


「どう?」


顔を覗き込むと、出帆はゆっくりと咀嚼して、噛み締めるように飲み込んだ。


「……すごい。……めちゃくちゃ、美味い」


絞り出すような声だった。


「外側が少しサクッとしてて、中はすごく濃厚で……。甘すぎないから、いくらでも食べられそう……」


もう一口、今度は大きめにカットして頬張った。その幸せそうな表情を見て、私の胸は一気に軽くなる。


「こっちのマカロンも食べてみて。苦労したんだよ?」


「マカロン!?……これ、売ってるやつみたいに綺麗」


彼はピンク色のマカロンを手に取ると、大切そうに口にした。サクッとした食感のあと、中のガナッシュが溶け出す。


「……陽翠、天才。訓練の疲れ、本当に全部吹き飛ぶんだけど」


そう言ってこっちを真っ直ぐうれしそうに見てくる。


まだ少し少年っぽさが残る横顔。けれど、その瞳には深い信頼と愛おしさが滲んでいる。


「これがあれば、どんな厳しい戦いだって乗り越えられる気がする。ありがと陽翠。最高のバレンタインだよ」


「……大げさだよ」


そう言いながらも、私の顔は熱い。


「ほんと、大好き」


そう言って笑う口元に、少しだけチョコのクリームがついているのを見つけて、私は思わず噴き出してしまった。


「あはは! 出帆、口についてるよ」


「え? どこ……?」


「もう、じっとしてて」


私は指先でそのチョコを拭い取る。


至近距離で目が合うと、部屋の中はチョコケーキの香りよりも甘い空気に包まれた。


この幸せな時間が、ずっと、ずっと続けばいいのに。


私たちは、そんな願いを込めて、残りのケーキを二人で分け合った。


「あ……」


指先に残ったチョコの熱を、出帆がそっと奪った。


そのまま私の手首を掴んだ指は、訓練の後だからか、いつもより少し熱くて力強い。


「出帆……?」


名前を呼ぶ声が、自分でも驚くほど小さく震えた。


至近距離で見つめ合うと、瞳の奥に、甘いケーキを食べた時とは違う、もっと深くて熱い色が灯っているのがわかる。


「……陽翠」


低い声が鼓膜を震わせる。


私の指を離すと、今度は両手で私の頬を包み込んだ。


少し荒れた手のひらの感触が戦っている証拠だ。その温もりが愛おしくて、私は思わず目を閉じる。


「最高のバレンタインを、ありがとう。……お返し、今してもいい?」 


答えを聞くのを待たずに、柔らかな感触が降ってきた。



重なった唇からは、さっき一緒に食べたチョコケーキの甘い香りがした。


けれど、その奥にある熱は、どんなお菓子よりも濃厚で、心臓の鼓動を狂わせる。


一度、離れそうになって、でも名残惜しそうにまた重なる。


背中に回された腕に力が入り、私は彼の胸の中にすっぽりと収まった。


「……っは」


ようやく唇が離れると、出帆の顔は耳まで真っ赤になっていた。


あんなに堂々とキスをしたくせに、終わってみれば私以上に照れていて。


「あのさ……出帆」


「っ……なあに?」



「大好きだよ」



怖くて仕方がないけど今しかない。ずっとずっと。百年先だって大好き。


「……これ、チョコより甘いかもね」


照れ隠しのように呟いて、彼は私の額に自分の額をこつんとぶつけた。


「大好きだよ、陽翠。……絶対に、守り抜くから」


外はまだ冷たい風が吹いているけれど、キッチンに残る甘い匂いと、彼の腕の温もりだけで、私はどこまでも強くなれる気がした。






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