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君のままでいて

「陽翠!何してるの?」


夏色のセーラー服のスカートは教室の窓から入ってきた風でひらひら揺れていた。ナチュラルに施されたメイクと凝った編み込みの髪型。周りにはいつもたくさんの友人がいるきらきらした女の子。


「瑠璃歌」


読んでいた小説から目線を上げれば束感のあるまつげに縁取られた瞳と目が合う。


「周防さん」


いや。私と目が合った訳じゃない。私の前の席で振り返って話しかけてきた………袴田勿忘を、見ている。


「白銀さん、この本好きだよね。漱石の夢十夜」


「だから?」


冷ややかな声は確かにあの頃の私の物だった。瑠璃歌のイラついたような目線。こちらへ向けられる取り巻きからの嫌悪。


ああ。嫌々。ああ。いいやいいや。


場面が切り替わり、暗闇の中に取り残された。


「陽翠、逃がさないから。」


暗がりの中で白く浮かぶような零蝶となった瑠璃歌の姿。


「人殺し」


短くそう言われたあと、意識は現実へと急上昇していった。


***

「っ、はぁっ………」


いつもと変わらない朝模様。何も変わらないのに。気分だけが重たく重たく沈んでいた。



まだ眠気の残る台所に立ち、まずはやかんを火にかける。シュンシュンと細い湯気が上がり始めたら、パンの塊をまな板に置いた。


包丁を入れると、カリリと小気味よい音がして、中から小麦の甘い香りがふわりと立ち上る。厚めに切った一切れをトースターに入れ、その間に冷蔵庫から卵を二つ。


小さなフライパンにバターを落とすと、黄金色の塊が滑るように溶け、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。


そこに卵を割り入れる。ジュワッという柔らかな音とともに、透明な白身が雪のように白く固まっていく。黄身が壊れないよう慎重に、岩塩をひとつまみ。


焼き上がりのベルが鳴り、こんがりと色づいたトーストを皿に並べる。湯気の立つコーヒーを添えれば、朝がようやく形を持ち始めた。


「出帆、おはよう」


声をかけると髪の毛束があっちこっちに行っている出帆が起き上がる。


「おはよ」


寝ぼけ眼をこすりながら、出帆はのろのろと椅子に座った。


いつもなら、その寝癖を指差して笑ったり、少し乱暴に櫛をあててやったりするのに。今日はどうしても、その一歩が踏み出せない。


沈黙を埋めるように、フォークと皿が触れ合うカチカチという音だけが響く。


「大丈夫?元気……ないよ?」 


不意に視線が重なり、心臓が跳ねた。見透かされているような、それでいて何も分かっていないような、真っ直ぐな瞳。


「……そう? 寝不足なだけ」


嘘をつく時、自分の声が少しだけ上ずるのが分かった。


台所に立ち、コーヒーの二杯目を淹れるフリをして背を向ける。


湯気の中に溶けて消えてしまいたい。


この穏やかな食卓も、バターの香りも、目の前で欠伸をしている出帆の存在も。


大切であればあるほど、今の自分には鋭いトゲのように胸に刺さった。


「陽翠、隠し事すると耳赤くなるよね」


重たい気分を振り払えないまま、私は固く目を閉じた。


「やな夢、見た」


「どんな?」


いつの間にかソファで二人で座っていて、どこまでも伸びるように平行な時計の短針を見つめる。


「瑠璃歌の、夢」


「逃がさないからって。人殺しって。言ってて」


きらきら光ってる。あの幻想が。


眩しすぎて触れられなかった。あの頃の瑠璃歌に。


「陽翠は、人殺しなんかじゃないよ」


「その男の子もそう言ったんでしょ?それに陽翠は今まで何人も救ってきたんだから」


そんな夢なんか捨てたよ。だって現実を見てよ。


「もしっ…、あのとき私が瑠璃歌とちゃんと話せてたらっ……、玲くんも眞雲さんも、鴇壬矢さんも生きてたのに」


「……違う。それは、陽翠が背負うものじゃない」


出帆の声は、凪いだ海のように静かだった。


冷たい雨に打たれて陽だまりを避けてたのに君の手のひらは温かかった。


隣に座る私の肩を、大きな、温かい手で包み込む。その体温が服の下の冷え切った肌に染み込んで、震えを無理やり止めていく。


「陽翠が話そうとしても、あの時の彼女は聞かなかった。それは陽翠のせいじゃない。誰かを救えなかったことは、殺したことと同じじゃないんだよ」


「……でも、私だけが生きてる」


俯いた視線の先、自分の膝の上で握りしめた拳が白く強張っている。


瑠璃歌の瞳、袴田勿忘の背中、そして――失われた命たち。


夢の中で聞いた「人殺し」という言葉が、呪いのように耳の奥で反響し続けている。


出帆は私の握りしめた手を一本ずつ、解くように解していった。そして、掌を上に向けて自分の手と重ね合わせる。


「じゃあ、僕が生きているのは? 陽翠がここにいてくれるから、僕は今日こうしてトーストを食べて、朝を迎えられた。それは数えに入らないの?」


「それは……」


「玲も、眞雲さんも、鴇壬矢さんも。みんな、陽翠に自分たちの分まで苦しんでほしいなんて思ってない。……零蝶だって、本当は」


出帆はそこで言葉を切り、私の顔を覗き込んだ。瞳には、朝の光が透明な粒子となって反射している。


「陽翠、あの夢の瑠璃歌は……今の陽翠が作り出した幻だよ。君を罰したくて、君が自分を許せないから、彼女の姿を借りて責めてるだけだ」


「…………」


「逃がさないって言ったのは、瑠璃歌じゃない。陽翠自身が、過去から逃げちゃいけないって自分を縛り付けてるんだ」


彼の指先が、私の熱くなった目尻をそっと拭う。


いつの間にか溢れていた涙が、彼の指を濡らした。


「泣いていいよ。でも、自分を人殺しなんて呼ばないで。陽翠は僕の大好きな大好きな太陽で……陽翠のままでいて」


出帆はそのまま、私を優しく胸の中へ引き寄せた。


トーストの香ばしい匂いと、淹れたてのコーヒーの残り香。そして、出帆の着ているシャツの、洗い立ての柔軟剤の匂い。


それらが混じり合って、冷たい過去の感触を少しずつ上書きしていく。


壁に掛かった時計の針が、チクタクと無機質に、けれど確実に現在を刻んでいた。


「……出帆」


「ん?」


「コーヒー、冷めちゃうね」


鼻声でそう言うと、出帆は少しだけ困ったように笑って、私の頭をぽんぽんと叩いた。


「また淹れ直せばいいよ。陽翠の分も、とびきり甘くしてさ」


今はまだ、過去の眩しさに目を細めてしまうけれど。


この腕の中の温かさだけは、嘘じゃないと信じたかった。



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