冬にして君を離れ(2)
神峰縁の人生とは、緩やかな地獄だった。
「──どうしてこんなこともできないの!!」
その言葉と共に、飛んでくるのは平手打ちだ。
そんなことを言われたって、できないものはできないのだ。
人間には、個々に与えられた得手不得手というものがある。
縁は勉学の方面はそれなりに優秀であったが、運動や芸術面での才能はからっきしだった。
縁の母はいわゆる、教育ママというやつだった。
塾も習い事も、週七回。ここにさらに+aもある。
縁は幼い頃から、ブラック企業のサラリーマンのような生活を送っていた。
平日は学校から帰ったら習い事へ、習い事の後は塾へ。土日は塾が始まる時間まで、家庭教師と自宅で勉強だ。
この生活の中では、睡眠が一番の娯楽だった。その楽しみも母の機嫌が悪いと深夜に叩き起され、阻害されてしまうが──それも仕方のないことだ。
仕事熱心な父は、ほとんど家に帰って来ない。外に女でもいるのではないかと、専業主婦の母は気が気でないのだ。
実際のところは誰にも分からないし、悪魔の証明なんてできるわけがない。
だからその不安を、母は子供を熱心に教育することで払拭しているのだ。
世の中というものは、『子供のためだ』と言えばなんだって許されてしまう。
怒鳴るのは、子供のため。
殴る蹴るの暴力は、子供のため。
家に入れないのは、子供のため。
自由を与えないのは、子供のため。
子供の物を壊すのは、子供のため。
親は、《子育て》というこの世で最も崇高な免罪符を手にできる。
しかし生まれてすぐコインロッカーに放り込まれなかっただけ、縁はまだ自身を恵まれている方だと考えていた。
もっと極端な話をしてしまえば、あのミイラのようにやせ細った恵まれない子供たちに比べれば、縁の置かれている現状などぬるま湯のようなものだろう。
資源も食料も有り余っている国に生まれただけ、運が良かったと神様とやらに感謝しなければならない。
そうやって、下を見て安心していた。生きているより死んだ方が、楽なのかもしれないのに。
こんなに恵まれた国でも、若者の死因トップはいつだって自殺だ。
電車は今日も明日も、止まり続ける。
地獄とは、人によりその姿をいかようにも変えるのだろう。
縁はマンションのベランダに出ると、もしここから飛び降りたら──と考えてしまうことがときどきあった。自宅は高層階にあるので、確実に《向こう側》に行けてしまえる高さだ。
母は、後悔してくれるのだろうか。⋯⋯しかし、その答えはおそらくノーだ。
《神峰縁》という、サンドバッグが壊れてしまったことは悔やむかもしれないが、そこにきっと愛は介在しない。
縁だって、死ぬのは怖い。まだ幸せになっていないからだ。
いつか幸せになって、死んでもいいと思えるその日が来るまで──生きていたかった。
「また私に恥をかかせて! お母さんまた、ピアノの先生に頭下げなくちゃいけないじゃないの⋯⋯!!」
母の金切り声がしたあと、ジャー⋯⋯という音がする。キッチンの蛇口から大量に水が出る音だ。
次に何をされるのかは、もう嫌というほどに知っている。
その水をタッパーに汲んでから、縁の頭にかけるのだ。
何度も、何度も、何度も──幼い頃からもう気が遠くなるほど経験しているはずなのに、水をかけられるたびに酷く情けなくて、惨めな気持ちになる。
そして床は水浸しになり、周りの物も拭かなければならなくなるから、なによりも後片付けが大変なのだ。
さらには濡れた頭をドライヤーで乾かし、服を着替えなければならない。
就寝中に頭から水をかけられることもあるが、寝具が犠牲になってより悲惨だ。びっくりして起きてしまうのも、辛かった。
「お母さんの言うことが聞けないなら、もう縁は施設に入れなくちゃいけないわ⋯⋯」
これは、母の口癖だった。
中学三年生にもなると脅し文句だと理解しているが、小学生までは本気で信じていて、この言葉を使われると縁は母に捨てられるのだと思い、いつも泣き出していた。
母が怒り出すと、何十分か、何時間かは彼女の気が済むまで怒鳴られ──この間は『ごめんなさい』という発言以外は、許されていない。
仮に縁が母に何かを意見すれば、
『親に口答えするな』
『子供のくせに生意気だ』
『またそうやって嘘をつく』
『育て方を間違えた』
『出ていけ』
そんなお決まりの言葉と共に、手か足か、あるいは物が飛んでくる。
怒鳴り疲れると、母はいつも途中から泣きながら怒るのだが、本当に泣きたいのは縁の方だった。
神峰縁の学校生活は、それなりに上手くいっていた。放課後や休日に遊んだりできないだけで、学校内では仲良くしている友人も多くいる。
──そう、思っていた。思い込んでいた。あの日の放課後までは。
「神峰くんってさぁ、良い人って思われたいだけだよね?」
三ノ宮姫乃の、突き刺すような言葉が胸を抉った。
その通りだった。本当は、心のどこかで分かっていた。
自分に友達らしい友達なんて、実際にはひとりもいないということを。
神峰はその日、生まれて初めて真っ直ぐ家に帰らなかった。
塾も習い事も、ズル休みしたことはこれまで一度もなかったのに。
暗くなってもまだ、学校のすぐ近くにある公園のベンチで佇み──ひとりで反省会をしていた。
向き合うことは怖かった。それでも、考えずにはいられなかった。
自分がこれまでずっと本物と思っていたものは、偽物だったいう残酷なまでの真実について。
──だけど、あそこまでボロクソに言わなくたっていいじゃないか。
宿題を見せたり、代わりにやってあげたりすると、みんなが自分を慕ってくれて嬉しかった。好きになってもらいたくて、見当違いの親切を振り撒いていた。
それがいずれ問題になるということは、神峰にだって分からないことではなかったはずなのに。
彼は憤りのあまり、ぎゅっと拳を握りしめる。三ノ宮が机の上に置いていったポケットティッシュは、まだその手の内に握られていた。
──なんで、こんなものを⋯⋯。
中途半端に優しくするなと、思った。優しくされると、嫌いになれない。
「こんなところで、どうしたんだ?」
声をかけてきたのは、担任教師だった。仕事が終わって家に帰る途中のようで、手には近くにあるパン屋の買い物袋を下げていた。
「せんせい⋯⋯」
神峰は、か細い声で呟くようにそう言った。彼の目元は真っ赤に腫れており、つい先ほどまで泣いていたであろうことは一目瞭然だ。
「腹減ってないか? とりあえず、これでも食え」
教師は手にしていたビニール袋の中から、メロンパンを取り出して神峰に渡す。甘いパンの香りが、鼻腔を擽った。
「駄目です⋯⋯先生から食べ物をもらうなんて⋯⋯」
「知らんのか? 先生はもう、勤務時間外だから実は先生じゃないんだぞ。今はプライベートの時間だ」
「そうなんですか⋯⋯。でも⋯⋯菓子パンなんて食べたら、お母さんに怒られます⋯⋯」
教師は薄く笑って、首を横に振った。
「それも問題ないさ。お腹の中は密室だ」
完全犯罪は、たやすい。神峰はその言葉に後押しされるように、手渡されたメロンパンを袋から出して齧り付いた。本当は、食べたかったのだ。
「俺、今日は塾も習い事も休んでしまって⋯⋯。家に帰ったら、どうなるか分からないんです⋯⋯」
気が緩んだのか、神峰の方から現状を話し始めた。教師はクロワッサンを片手に、軽い調子で答える。
「神峰、いいことを教えてやろう。人間っていうのはな、塾も習い事もなーんにもしなくたって、死にはしないんだ。生きるのは、そんなに難しいことじゃない⋯⋯飯食って、寝て、ときどき排泄するだけでいいんだ。簡単だろ?」
こくりと、神峰が頷く。教師は、優しく語りかけるように続けた。
「子供の社会は狭すぎる。こんなことを言うと、教師失格なんだろうが──間違ってると思ったら、親の言うことだって聞かなくたっていいんだ。親だからって、正しいわけじゃない。⋯⋯と言っても、あのお母さん相手じゃ難しいか」
教師は三者面談での、神峰の母の様子を思い出す。典型的な教育ママという印象だった。
彼が今回の件で多少強引な手を使って、三ノ宮姫乃という生徒を間に挟んだのもこのためだ。
周りの大人すらも敵になってしまうような、最悪の展開は避けたかったのだ。
三ノ宮は、与えられた役割を上手く演じてくれたと思う。まさか泣かせるまで追い込むとは思っていなかったが──これはいい足止めになっていた。
呼び出しや注意等の敵対行為を取らずして、そっと寄り添い話をすることができた。
「お前にとって大人は、味方じゃないのかもしれない。でも⋯⋯敵じゃないってことだけは、忘れないでくれ」
縁は、自宅の前まで帰って来ていた。
なるべく音が出ないように静かに、ゆっくりと鍵を開ける。
そしてドアノブを握るが──それを下ろすことも、引くこともできなかった。
重いのだ。重くて、とても開けられなそうにない。
帰りたくなかった。吐き気がするくらいに。
だから、こういう時はドアノブから手を離して、ゆっくりと深呼吸することにしている。
幾ばくかの時間が経ったあと、もう一度ドアノブに手を掛けた。
そして、扉を開けると──ガコン、という耳障りな音がした。ドアロックがかけられていたのだ。
その音を聞きつけて、縁の母親が大きな足音を立てながら玄関までやって来た。
「こんな時間まで、どこをほっつき歩いてたの!?」
母がドアロックを解いて扉を開けると同時に、平手打ちが飛んできた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
いつもならここで、涙ぐんで『ごめんなさい』と言っていただろう。
しかし、縁は謝らなかった。母を無言で睨みつけて、黙っていた。
彼女は子供の帰りが遅くて、心配して怒っているのではない。
ただ子供が、自分の思い通りにならないのが気に食わないだけなのだ。
「どこで何をしてたのか、ちゃんとお母さんに説明しなさい!!」
母の金切り声が、マンションの廊下に響く。
誰も出てきたりはしない。これが現実というものだ。
我関せずと、静かに聞き耳を立てるだけ。正義の味方なんて、この世には存在しない。
家庭という閉ざされた世界には、救いの手は届かないのだ。
「俺の人生は、母さんのものじゃないッ!」
──だから、自分の足で立たなくてはならない。
「神峰縁は、あなたの暇つぶしのための玩具じゃない⋯⋯。施設にでもなんでも入れたらいい。もう俺の人生に、あなたは必要ない」
こうして縁は、一足早く大人になった。
大人になるということは、親を必要としなくなるということなのだ。
中学三年生の縁が自由になれる年齢まで、そう遠くはなかった。
来年になれば家を出て、外の世界で働くことだってできるのだから。
後日談。
縁の母と父はその後、袂を分かつことになった。
心の拠り所にしていた息子から拒絶され、行き場を無くした母の憂いは飲酒へと向かう。
昼夜問わずに飲み続けるものだから、家の中には酒の空き缶や空き瓶が大量に溢れ──父もさすがに、これには怒りを顕にした。
縁はかつて母だった人とは、生きているうちに二度と会うことはない。
夫に離婚を仄めかされた彼女は、呪いを残して《向こう側》へと旅立った。
縁はそれを、悲しいとは思わなかった。もう、母の愛に縋る子供ではないのだ。
父は仕事が忙しいためか、相変わらず家にはほとんど帰って来ないが──父には父の人生があると、縁は納得していた。仕事は、父の恋人なのだ。
放任主義な人だが、有り余る過干渉に疲れていた縁にはそれがありがたかった。
やまない雨はないと言うけれど──永遠に雨がやまなくたって、傘をさして生きていければそれでいいじゃないか。




