冬にして君を離れ(1)
年月は遡り、三ノ宮姫乃がまだ中学三年生の、二学期のことだった。季節は、冬。
担任教師に生徒指導室へと連行されたかと思うと、彼は酷く深刻そうな表情を浮かべて口を開いた。
「三ノ宮。恥を忍んで先生から、頼みがある」
ごくり。ただならない教師の様子に、三ノ宮も固唾を飲んだ。
「実は⋯⋯神峰のことなんだ。本来、こういうものは生徒に見せてはいけないんだが⋯⋯何も言わずに、これを見てほしい」
机に広げられたのは、三ノ宮の所属しているクラスメイト全員分の成績表だった。しかもこれは生徒に渡す類のものではなく、教師版のプロフェッショナルな成績表だ。
テストの点数から授業態度や個人の性格まで、事細かに書かれている。
「せ、先生⋯⋯」
中学生でも分かる、これはさすがにまずいんじゃないかと。三ノ宮は教師の顔を、おそるおそる伺う。
「大丈夫だ。秘書がやったことにしておけば」
「えぇー⋯⋯」
「そしてこれが、去年のみんなの成績表だ。まずは各生徒の成績を今年と去年で見比べて、比較してみてほしい」
いけないことだとは知りつつ、三ノ宮は有り余る好奇心には勝てなかった。
個人情報の塊みたいなその成績表を、ひとりずつざっくりと見ていく。
どうやら田中くんは、授業中に鼻ほじりをするらしい──。知らなかった。
その他にも、佐藤さんは人の物を盗む癖があるだとか、高橋くんは怒ると手が出るだとか。成績そのものよりも、生活態度の方に目がいってしまう。
「なんか、やたらと成績が落ちてる生徒が多いですね」
クラスメイト全員分の成績表(自身を除く)を見終わったところで、三ノ宮がぽつりとそんな感想を述べた。
「それだ。それなんだよ、三ノ宮」
教師がその言葉を待ってましたと言わんばかりに、力強く頷いた。
「オール4から5の生徒は落ちてないみたいですけど⋯⋯去年まで3から4を多く取っていた生徒が、下に沈んでるっていうか⋯⋯」
成績は、5段階評価での査定になる。上位の成績に属する生徒はそのままだったり、続伸していたりするが、中間層から下位に沈む生徒が多く見られた。
そしてもともと下位に属していた生徒は、さらに下へ。
まるで、現代の資本主義を表すような構図だった。
「三ノ宮は成績も良いし、このままいけばそれなりにレベルの高い高校でも合格するだろう。だが、他の生徒はそうもいかなくなるかもしれないんだ」
「はぁ⋯⋯」
教師から急にヨイショされ、三ノ宮は生返事で答える。彼女は勉強熱心というタイプではないが、弟に勉強を教えられるようにと、陰でそれなりの努力をしている。
教師はむろん、それを把握していた。三ノ宮姫乃の成績表は、この場では開示されていないが──去年まで〈問題なし〉と書かれていた生活態度には、今年から〈姉弟仲に要注視〉と新たに記されている。
毒を以て毒を制す。それが今回、三ノ宮に白羽の矢が立った理由だった。
急に生徒指導室に呼び出しても周りが疑問を抱かず、なおかつ交渉が可能であろう生徒は彼女しかいなかった。
「さらに⋯⋯これを見てほしい。二年生で、神峰と同じクラスだった生徒複数名の去年と今年の成績表だ。そして三年生で神峰とクラスが一緒になった生徒と、ならなかった生徒を比べてみてくれ」
「これは⋯⋯」
パッと見ただけでも、その差は歴然だった。
三年生から神峰とクラスが別になった生徒の成績は、盛り返すように上がっていくのに対し、神峰と同じクラスのままの生徒はより下へと下がっていた。
「まるで神峰くんが、クラスメイトにデバフをかけてるみたいですね」
「そうだ。神峰の二年生の頃の担任は、この不可解な現象を見落としていたみたいだし⋯⋯先生も受験シーズンが来るまで、これには気付けなかった。つまり先生はな、最後の最後で貧乏くじを引かされたんだ」
もっとも二年生の頃の担任は、気付いていてスルーした可能性も無きにしも非ずだが。もしそうだとすれば、世渡り上手にも程がある。
「これを知らんぷりで見過ごすことも、先生にはできる。賢い大人はそうするもんだ。だがそれでは、未来ある子どもの可能性を潰してしまうことになる」
ここにきて真っ当な教師らしいことを言い始めた担任教師に、姫乃は困惑する。机の上に散りばめられた個人情報の塊(成績表)さえなければ、感動していたかもしれない。
「成績が落ちた生徒だけの問題じゃなくて、この先、神峰自身のためにもならないしな。どこかで、誰かがやらなくちゃいけないことなんだ⋯⋯」
教師はそう言うと、封筒を取り出して三ノ宮の前に差し出した。
「三ノ宮には、一年生に弟がいたよな? 喜ばせてあげたいとは思わないか?」
三ノ宮がおそるおそる、封筒の中身を確かめると──そこには、某ネズミーランドのチケットが二枚。ご丁寧にも最寄り駅からの二名分の往復切符と、施設内で使えるギフトカードが同封されていた。
「先生!?」
賄賂である。完全にアウトとしか言いようのない代物だった。
「本題に入ろう。三ノ宮には神峰が他の生徒にしている、成績を下げさせるような行動をどうにかやめさせてほしいんだ」
「そんなの、先生が言えばすぐに反省するんじゃ⋯⋯」
「神峰とは、三年連続でクラスが一緒の三ノ宮なら分かるだろ? あの子自身は至って真面目で、問題のない生徒なんだ。先生がな、そういう生真面目な子にデリケートなことを直接注意をするとな⋯⋯ショックで寝込んだり、最悪のパターンは不登校になっちゃう子もいるんだ。三ノ宮、そうすると先生はどうなると思う?」
「鬱鬱になって職を失う?」
「正解だ。休職して復帰という可能性も僅かにあるが、たいていは闇堕ちする。先生もな、人間なんだ⋯⋯親御さんからガン詰めされた時の恐怖は、それはもう計り知れない。ましてや不登校ともなれば、偉い先生、PTA、教育委員会が夢のオールスターで登場してその後は⋯⋯」
悲しそうに過去に見聞きしたことを話しているような教師に対して、三ノ宮は受け取った封筒を懐にしまい込んでから──覚悟を決めて言った。
「⋯⋯分かりました。そこまで言うなら、お引き受けします」
その日から三ノ宮姫乃は、神峰縁を観察することにした。
三年連続で同じクラスといっても親しい友人というわけでもないので、ろくに話したことすらなかったのだ。
まずは、市場リサーチから始めることにした。
「神峰君について聞きたい?」
同じクラスの友人である、水無瀬月雲は不思議そうに首を傾げた。
彼女は少しふっくらとしていて、美人とは言えないが、聡明さを感じさせる女の子だ。
「うん。月雲ちゃんはどう思う? 神峰くんのこと」
「どうって言われると難しいけど⋯⋯優しいよね。あとは頭が良くて、真面目な男の子って感じかな」
「真面目ねぇー⋯⋯」
三ノ宮はちらりと、神峰の方に視線を向けた。
「神峰君。私、宿題やるの忘れちゃって。申し訳ないんだけど、見せてもらってもいい?」
「あ、俺も忘れてた! すまん神峰、ついでに頼む!」
「うちもだー!」
「僕も⋯⋯」
どうして今まで、この光景に疑問を抱かなかったのだろうか。それとも、あまりに見慣れすぎてしまって、日常となってしまっていたのか。
蓋を開ければ、えらく単純な話だった。真面目で勉強ができて、誰にでも優しい神峰縁。彼の情報収集は、そう難しくなさそうだ。
「気になってるの? 神峰君のこと」
三ノ宮が恋バナをするなんて珍しいと、月雲は前のめりの姿勢になった。
「気になるっていうか、気にしないといけないというか⋯⋯とにかく、いろいろと神峰くんについて知りたいなって」
「それなら、私も協力するよ! できることがあったら、なんでも言って」
数日後。神峰の行動パターンから、ふたりきりで話す機会を作るのは容易なことだった。
その日の彼は、放課後に日直としてのノートの記入をひとりで行っていた。
今日は、神峰が日直というわけでもないのに。
三年間も同じクラスだったはずなのに、三ノ宮はまったく知らなかった。
彼が完全に、人の字を真似て書くことができるなんて。その人の字で、その人らしい文章で、完璧なまでに。
この手口が、日直ノートだけに限定されるわけがない。自分の頭で考えて書くタイプの課題だって、代わりにやってしまえるだろう。
これでは教師ですらも見破れない、完全犯罪だ。
真面目で優しい神峰縁は、このためにどれだけ無駄な練習を重ねたのだろう。
他人のためにそこまでして、いったい何になるのか。こんなおぞましいことが自分のクラスの水面下で起こっていたなんて、知りたくなかった。
数日前の三ノ宮には、軽く注意すれば終わるような些細な問題だと思っていた。しかし事態がいかに深刻か分かると、担任教師が危ない橋を渡ってまで、ことの解決を試みた理由がようやく理解できた。
とんでもないことを押し付けられてしまったのかもしれないと──気付いた時にはもう遅かった。
三年間で溜まりに溜まった膿を、荒療治でどうにか出し切らねばならない。
「神峰くんってさぁ、良い人って思われたいだけだよね?」
三ノ宮が考え抜いた挙句にとった行動はというと、言葉のナイフを容赦なく振りかざすことだった。正論は、人を傷付ける。
「な、なんだよ⋯⋯三ノ宮姫乃」
突然に悪意をぶつけられた神峰は、戸惑う。掴みはバッチリだった。
「宿題は誰にでも見せるし、当番でも委員会でもなんでもかんでも、いつも誰かの代わりにやったりなんかしちゃってさ」
「だってみんな、そうしたら喜んでくれるじゃないか⋯⋯!」
神峰にも良くないことだという、自覚はあるらしい。震える声でそう言ってから、俯いた。日直ノートを書く手も、ぴたりと止まる。
間違いなく、効いている。三ノ宮はここで、禁じ手とも言える手法を使うことにした。
「あのさぁ。そういうの、やめた方がいいよ? 神峰くんは感謝されて気持ちよくなれるかもしれないけど、周りを堕落させるから。⋯⋯知ってる? 神峰くんのいるクラスだけ、いつも成績が下がり続けてるんだって。わたし聞いちゃったんだよね、職員室で先生がそう言ってるの」
「⋯⋯⋯⋯!!」
ぶわっと、神峰の瞳から今にも涙が零れてしまいそうなくらい、目がうるうるとしていた。
担任教師の言う通り、直接に教師の口からこんなことを言われてしまえば、不登校にもなりかねないくらいのダメージを受けている。
まだ必死に堪えているのは、同級生からの又聞きだからだろう。
これは一部フェイクを混ぜているものの、完全に嘘というわけでもない。
それに頭の良い神峰なら、この事実にも気付いていないはずがないのだ。わざと、気付かないようにしていたのかもしれないが。
今にも泣き出してしまいそうな彼に、思わず『ごめんね』と三ノ宮は言ってしまいそうになるが、心を鬼にしなければならない。
そのまま、躊躇うことなく正義棒を振りかざした。
「君のせいで将来有望な子だって、楽をしてズルをして──その結果、行けるはずだった偏差値の高校にだって行けなくなるんだよ。神峰くんは、その責任が取れるの?」
神峰は、静かに首を横に振った。動いたために、涙がぽろりと落ちて日直ノートの上に滲んだ。
「取れないよね。他人の人生に責任なんて感じてないから、そういうことができちゃうんだよね? 神峰くんは、みんなの人生を台無しにしてるんだよ」
ここまで詰めれば、さすがにもうよさそうだった。神峰は堪えきれなくなったのか泣きじゃくり、これ以上は話ができる様子でもない。
三ノ宮は街中でもらったポケットティッシュを鞄から取り出して、彼の机の上にそっと置く。
そして去り際に、神峰が自分の席に広げている日直ノートの文字をなぞって、とどめを刺すように吐き捨てた。
「本当に気持ち悪いよ。そういうの」
これだけは嘘偽りのない、腹の底からの本音だった。
数日後。
「いやー、よくやってくれたな三ノ宮! 先生はお前ができるやつだって、信じてたぞ!」
生徒指導室にて。ニッコニコな笑顔を浮かべる担任教師と、それとは対照的に疲れた顔をした三ノ宮が向かい合っていた。
テーブルの上には、紅茶と色とりどりのマカロンが並んでいる。
こんなものを持ち込んでいいのかというツッコミは、もういれない。
「あれからわたし、なんでかすごい絡まれるようになったんですよねぇー⋯⋯」
三ノ宮の気疲れの原因はそれだった。
翌日、腫れた目で登校してきた神峰は、『お前には負けない!』という謎の宣言をして、問題となっていた行動の全てをぱたりと終止してしまった。
勉強面では彼にそもそも勝っていないし、三ノ宮が負けていないと言えるのは運動面くらいだった。
「あいつはきっと⋯⋯友達が欲しかったんだろうな。悪いことを悪いと叱ってくれる、そんな友達が」
教師は凄くいいことを言っているのに、その手にファンシーなマカロンがつままれているだけで台無しだ。
三ノ宮の方は《キングマカロン》と言えそうな、どら焼きサイズの巨大なマカロンを食べていた。中にはなんと、フォンダンショコラが詰まっている。
そして彼女はふと、疑問になっていたことを尋ねた。
「先生は、日誌のこととかも気付いてたんですか?」
「日誌?」
なんのことやらと、教師はきょとんとした表情を見せる。
「これですよ、これ。他人の筆跡って、こんなに上手く真似できるものなんですかね?」
三ノ宮はちょうど当番の日だったので、持ち出してきた日直ノートを広げて事のあらましを説明した。
「なるほど⋯⋯こりゃ、下手したら筆跡鑑定も通りかねないくらいの完成度だな⋯⋯」
教師は全てが丸く納まったことに対して、思わず安堵の息をついた。
「あいつは将来、大物になるかもしれないな」
「ですねー⋯⋯」




