三ノ宮の下駄箱
それは、爽やかな朝の登校時のことだった。
なにやら昇降口で生徒達が集まっていて騒がしいが──三ノ宮姫乃は自分には関係のない他人事だと思い、人の波をかき分けて自らの所属するクラスである2年4組の下駄箱ゾーンへと到着した。
ところが、ふだんのように三ノ宮が下駄箱で靴を履き替えることは叶わなかった。
「なにこれえ!?」
驚きのあまり、彼女は思わず大きな声を出してしまった。周囲に集まっていた生徒たちの視線が、三ノ宮へと一斉に向けられる。
その理由は別に、三ノ宮が大声を出したからというわけでもない。
まず、三ノ宮本人の下駄箱にはデカデカとスプレー塗料でこう書かれていた。
【三ノ宮死ね!】
これだけならまぁ、酷いことをするものだと呆れながらもそれで終わりなのだが、事はそれだけでは済まされない。
その落書きは三ノ宮の下駄箱を中心として、その周囲のクラスの生徒複数名のロッカーを巻き添いにしながら、さらには床にまでも広がっていた。
【DEATH】
【クソビッチ!】
【滅殺】
【ブ女】
【かかってこいや!】
【エロ魔】
三ノ宮がなんとなく読み取れた文字だけでもこの有様だった。
この犯行を行った人間は、スプレー塗料なんてものを初めて使ったのではないだろうか。
書き殴ったような字は蚯蚓ののたくるように汚すぎて、そのほとんどがろくに読めないものばかりだ。
酷い! を通り越してようやるわ、という感想だった。こんなのは少女漫画でもお目にかかったことがない。完全にヤンキーのやり口だ。
ここまでいくと陰湿という気さえしない、正々堂々といじめ倒しにきている。
床に広がる怨嗟の文字を踏みつけながら、三ノ宮はおそるおそる自分の下駄箱へと近付いてロッカーを開けた。
すると、ばさりばさりと音を立てて雪崩のように溢れんばかりの紙束が床に散らばった。
その中の1枚を三ノ宮が手に取ると、それは黒いあいつのイラストが描かれたカードだった。黒いあいつとはもちろん、Gから始まる名前の昆虫であり、人類の敵だ。
下駄箱の中身が実物の黒いあいつでなかったのは拍子抜けだったが──実行犯が全員女子だとするならば、それも当然の帰結かと三ノ宮は納得した。
残念ながら上履きはハリネズミと化していた。これでもかというくらい憎しみを込めて隙間なく五寸釘が打たれており、もうとても靴としての役目を果たせそうにない。
これではもう、投げるだけで相手に致命傷を負わせられそうな武器だ。
時代が違えば、使い道もあっただろうに。
それからというもの、大騒ぎになった。(当たり前だが)
ただの上履きを殺傷力のある武器へと改造されてしまった三ノ宮は、仕方なく体育館シューズを履いて、今日一日を過ごすことにした。
面倒だが、これからは上履きなども鍵付きのロッカーで厳重に管理しないといけないかもしれない。
昭和の時代なら何事もなく授業が始まっていたかもしれないが、今は天下の令和である。何かとコンプライアンスにうるさいこの現代では、何かあるとお上(教育委員会)が黙っちゃいない。
担任の姿が見えずホームルームがスキップされたと思いきや、先生方で緊急職員会議が始まってしまったようで、なんと一限目が自習になってしまった。
生徒たちは真面目に勉強する者もいれば、クラスメイトと雑談したりと、各々がこのフリータイムを自由に過ごしていた。
「よっ、人気者!」
三ノ宮は自分の席に座ったまま、課題を早めに終わらせておこうと取り掛かっていた──が、いつもよりうんと楽しげな表情の逆瀬川水菜に、ぽんと肩を叩かれた。
こんな軽いノリで話すほど仲良かったっけ、と三ノ宮は疑問を呈したが、相手はこのクラスきっての陽キャであり一軍系女子の逆瀬川だ。
三ノ宮もあまり深いことは考えずに、ずっと前から友達でしたよ感を醸し出す逆瀬川のペースに合わせることにした。
「まったく他人事だからって⋯⋯」
「下駄箱のアート? あれ、じっくり見てる暇なかったから記念に写真撮っておいたわー」
そう言って、逆瀬川は自分のスマートフォンの画面を三ノ宮に向ける。
そこにはこの世に存在するありとあらゆる罵詈雑言を書き殴られ、落書き塗れになった三ノ宮の下駄箱を背景に──逆瀬川とその友人たちの自撮り写真が映っていた。
「フォトスポットかなにか?」
「こんなの、後世に残しておかないと逆に失礼でしょうが。映えるわー」
「おっと。いつまでわたしにそんな口が利けるかな? あまりわたしを舐めない方がいい⋯⋯」
「うっわ、なにそれエグ!」
三ノ宮はスッ⋯⋯と、学生鞄の中身を逆瀬川だけに視認できる角度で見せつけた。
その中身とはもちろん、例の五寸釘上履きである。
事態が三ノ宮が考えていたよりも大事になっていることから、『上履きがこんなんになってました』とてんやわんやな状態の先生方にわざわざ報告して、余計に仕事を増やしてしまうことは筆舌に尽くし難い。
「美男にファンクラブがあるってことは、さすがにボッチ様の姫乃でも知ってるわよね? ああいうの作ったり入ったりするガチ勢がいるからには、このくらいの洗礼は朝の挨拶みたいなものと思って、軽く流すしかないんじゃないかしら」
ん? なんだか今、聞き捨てならない形容詞が聞こえてきたような──三ノ宮は自分の膝元にある鞄の中に、わざとらしく首を下に動かして視線を向けた。
そして、ぎゅっ⋯⋯ぎゅっ⋯⋯と、ハリネズミ状態の五寸釘上履きをカバン越しにウォーミングアップさせてみる。
力加減を誤ると鞄が破れてしまいそうなくらいに、強度は抜群だ。
「あんた、けっこうヤバい奴なんじゃないかってあたしときどき思うのよね⋯⋯」
急に真面目な顔で逆瀬川にそんなことを言われてしまっては、三ノ宮はしぶしぶ矛を収めざるを得ない。
そうしているうちに、一限目の終わりを告げるチャイムが鳴った。
「三ノ宮さん、大丈夫かい? まったくあんな酷いことをする人達がいるなんてね、あんまり気にしない方がいいよ」
逆瀬川が『じゃあねー』とひらひらと手を振りながら友人たちの集まるグループに戻っていくと、隣の席の港未来が心配そうにこちらを伺いながら声をかけてきた。
朝から散々な目にあったと気が滅入っていた三ノ宮だったが、意中の相手である港から話しかけられたというだけでも怪我の功名と言えよう。
美男綺麗という《薔薇》に三ノ宮を掠め取られた自称の港ではあったが──三ノ宮にとって、彼は向日葵の花のような存在だった。たんぽぽでもなければ雑草でもない。
鮮やかな黄色い髪と茶色がかった瞳を持つ港の整った顔立ちは、美男綺麗とはまた違う種類の魅力を秘めている。
「なんかごめんね、港くんのロッカーも巻き添いにしちゃって大変なことになってるし⋯⋯」
不運にも港のロッカーは三ノ宮の周囲にあり──そこには確か、とぐろを巻いた蛇のような汚らしい絵が描かれていた。
よりにもよって、うんこである。
三ノ宮は自分のロッカーにデカデカと記された《三ノ宮死ね!》よりもよほど、港のロッカーに雑に書かれたうんこの方に圧倒的なまでのダメージを受けていた。
「三ノ宮さんのせいじゃないんだから、謝らないでほしいな。ぼくはただきみがしんぱ「三ノ宮ッ!」
美男と付き合い始めたことによって起きた、三ノ宮へのあまりに度の過ぎた嫌がらせ。
これは港にとって千載一遇のチャンスであり、たんぽぽの意地の見せどころはこういうところしかない──というところに、登校してすぐ教師に連行され、この時間まで生徒指導室で取り調べを受けていた美男が、息を切らしながら教室に戻ってきた。
ここまでの道程を全速力で走ってきたのだろう、額に汗が滲んでいる。いいところで邪魔するなよ、と港の顔が引き攣る。
廊下を走ってはいけないと、小学校で教わらなかったのだろうか。
「ごめんな、遅くなって⋯⋯」
美男は三ノ宮の座っている席まで来ると、まるで主君に仕える騎士様のように片膝をついて彼女を見上げる姿勢になった。
生まれる時代を間違えているのではないかと思うこのキザな仕草も、王子様のような見てくれをした彼が行うと絵になる。
「三ノ宮は可愛いからな。何処の馬の骨か知らないが、オレと付き合い始めたことに嫉妬した男があんなことをしたんだろう」
──この男、天然である。三ノ宮は愕然と肩を落とす。自分にファンクラブがあることを、美男は知らないのだろうか。
彼の『可愛い』発言に対しては、そういうことこそ人前で(特に港の前で)言わないでほしいと三ノ宮は切実に思うが、嬉しくないと言えば嘘になる。
なぜなら彼女にとって美男はアウトオブ眼中の男ではなく、好意を寄せられることに嫌な気持ちを抱かないくらいには、魅力のある相手なのだ。
本命の相手ではないだけで。
『勢い余って、ついその場で言ってしまった』と美男から後ほど謝罪された公開告白については、女子生徒の間ではクラスや学年を問わずにあっという間に広まり──そしてあの下駄箱の有様である。
「三ノ宮さんは確かに素敵な女の子だけど──あの惨状は少なからずきみに責任があるよ、美男くん」
三ノ宮は理解している。港は話の流れで、『素敵』と言ってくれただけなのだろうと。
しかしお世辞の類とは分かってはいても、彼女の心臓の鼓動は早くなるばかりで落ち着かない。まるで何か、悪い病気にでもかかったみたいに。
──恋という病は、心臓に悪い。
「美男くんはもう少し、自分が置かれている立場を考えて行動した方がいいんじゃないかな。きみに夢中な女の子たちが、怒り狂ってあれをやったとは考えないのかい?」
港が窘めるようにそう続けると、美男は鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
そんなことは考えもしなかった、と如実に表情に出ている。
そのタイミングで中休みの終了を告げるチャイムが鳴り、この場は解散となった。




