秘めごと(1)
次の日の、三ノ宮家でのことだった。
「時くーん、肩とか凝ってない?」
手を商人のように擦り合わせ、三ノ宮姫乃はへりくだった態度で弟である三ノ宮時乃に声を掛けた。
今回の用件は母の前では話せる内容ではないため、夕食の後にこそこそと弟の部屋まで来た。
ふだんならば有無を言わせずに追い出されるところだが、今日は例外らしい。
勉強のために机に向かっている時乃は、ちらりと視線だけを姉に向けてぼそりと呟いた。
「右肩」
姫乃はこの言葉に、姉としての尊厳を忘れたかのように返事をした。
「かしこまりましたー」
そうして、まるで召使いのように弟の肩を解していく。
「それでね時くん、昨日のアレなんだけど⋯⋯」
さっそく、姫乃は本題に切り込んだ。例の写真と動画、その二つをなんとしてでもこの世から抹消しなければならなかった。
「これで勘弁してもらえないかな?」
姫乃が震える手でポケットから合計二体の諭吉を召喚するも、時乃はそっぽを向いた。足りないというのか。
「もう一言って? 仕方がないなぁー⋯⋯」
ここで、伏兵の三体目を召喚。最新のゲーム機すらも買うことのできるこの金額ならば、交渉のテーブルに着けないはずがないと姫乃は踏んでいた。
「そんなにバレたら困るわけ?」
弟の冷たくも厳しい視線が、刃物のように彼女の心へと突き刺さる。
「困るっていうか⋯⋯人として終わっちゃうっていうか⋯⋯」
「人として終わるようなことしてたくせに」
「そ、それはっ⋯⋯! 話せば長くなるんだけど⋯⋯」
そうして姫乃は、桜花春との一連の出来事を説明した。
「──と、いうわけなんだよね」
「ふーん⋯⋯」
「お姉ちゃん、これはもうノーカウントとしか言えないと思うんだ」
「じゃあこれ、赤いのに見せても問題ないか。ノーカウントだもんね?」
実際はスリーアウトだった。姫乃が、涙混じりに時乃に縋りついて頼み込む。
「お金あげるからぁ! お願いだから美男くんには言わないでっ!」
「嫌だね。次に会う時が楽しみだなー」
「ときくううん⋯⋯」
賄賂も不可、泣き落としも不可、となると彼女はもう万策が尽きていた。
「なんでもするからぁ!」
大人向けの漫画みたいな台詞だった。これには時乃も、少し考えてしまう。
昨日の悪魔のような男の誘いにだって実のところ、勢いに任せて頷いてしまいそうになったものだ。
あの時、姫乃は嫌だとは一言も言わなかった。倫理観がどうだとか、建前のようなことを並べて、時乃自身を拒絶することをけしてしなかった。
そういう甘さが嫌いで、好きだった。いっそのこと、黙っている代わりに交尾させろとでも言ってしまおうか、と時乃は逡巡する。
姫乃はまず──断れないだろうから。この姉は間違いなく、嘘を突き通すためにならなんでもする。嘘に嘘を重ねることになったとしても、だ。
「なんでも、ねぇ⋯⋯」
しかし時乃は、姉といやらしい関係を持つことだけが目的ではない。
風呂上がりにしょっちゅう素っ裸で自宅を徘徊する姉には、性的な欲求は刺激されるばかりなのだが──ただ、厄介なことに好きだった。
好きだからこそ、手っ取り早く『男』と『女』になればいいという話でもない。
実の姉に対して、こんな浅ましい感情を抱くことが許されないのは、頭では理解しているのに。弟として愛されるだけでは、もう足りなくなっていた。
「いいよ、お姉ちゃん。でも、黙っててほしいなら──」
そして、時乃がつけた条件は。
後日。三ノ宮家でのこと。
姫乃は、時乃と交わしたある約束を遂行していた。
「もう少し力弱めて」
「こ⋯⋯こう?」
「ん⋯⋯いい感じ⋯⋯」
それは──マッサージだった。
毎日、時乃の全身を揉みほぐすことを条件に、姫乃は例の件の口止めに成功していた。
現在は漫画を読みながら姫乃のベットに寝転んでいる弟の、腰周辺のツボを押している。
姫乃としては三体の諭吉が温存できたことに加え、反抗期真っ盛りで一年ほどまともに口も聞いてくれなかった弟が、ようやく歩み寄ってくれようとしてくれていることにほろりと涙が出そうになっていた。
どうりでお金も受け取ってくれないわけだ、とまるで見当違いの解釈をして。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
時乃の方は、違ったが。股間のマッサージでもさせてやろうかと思う気持ちはあるものの──肉体関係を結ぶことだけが目的ではないのだ。
もちろん、時乃も男の子なのでそういうことには興味しかない。姉の裸を見る度に、ティッシュが減っていく。
「時くんって、彼女とかいるの?」
姫乃が探りを入れる。どうにかして、弟の弱みのひとつでも握りたいという邪な考えだ。
時乃はその可愛いらしい顔立ちと、ツンデレ(デレ抜き)属性からして女子に人気があるし、バレンタインでは毎年、山のようなチョコレートを抱えて帰ってくる。
そんなめちゃモテな弟のことだ、何かしらはあるだろうと踏んでいた。
「いないし、興味ない」
時乃はこれには拗ねる。そんなことは、聞かれたくもないことだった。
「ほんとにー? 好きな女の子とかはいないの?」
しかし、姫乃は引き下がらない。
──おまえだよ、おまえ!
そう言ったら、いったいどんな顔をするんだろうかと、時乃は姉の反応を想像してみる。
『そうなの? 嬉しいなー、お姉ちゃんも時くんのこと大好きだよっ』
たぶん、これで終わる。確実にこうなる。
「⋯⋯いたらどーすんの?」
「もちろん、応援するに決まってるよ。時くんが好きになるような女の子かぁ⋯⋯あ、雪ちゃんとかだったりして! 可愛いし、なによりおっぱい大きいもんねー」
茨白雪という親友に対するものとは思えない下衆な感想を述べつつ、姫乃は閃いたようにそう言った。
「絶対にない」
あの性根が腐った女との友人関係が続いている姉が、些か心配になった。話題を逸らすついでに、時乃は薄々感じていた疑問を口にする。
「姫乃はあの赤いののこと、ほんとに好きなわけ?」
マッサージのために腰に触れていた手が、ぴたりとほんの一瞬だけ止まった。
時乃には、これだけで十分だった。やっぱりそうだ、と確信を得る。
「やだなー、時くんったら。付き合ってるんだからそんなの当たり前だよっ」
時乃が母親から話を聞いた限り、告白したのは姫乃からで、付き合おうと返事をしたのは美男綺麗という男からだということだった。
そのどちらも、たくさんの生徒がいる教室内で起きた出来事だという。
おかしいと思っていた。この姉はそこまで積極的な方じゃない。
なら、答えはひとつしかない──嘘だ。
「へー⋯⋯」
先日、家に来たあの真っ黒な男。桜花春が付け入る隙があるくらいには、姫乃の天秤は傾いていない。
「好きな人なら⋯⋯まぁ、いるけど。お姉ちゃん、応援してくれるんだよね? なら、練習に付き合ってよ。いざって時に失敗したくないし」
「なんだ、やっぱりそうなんだぁ! 言ってくれたらわたし、なんでも協力するからね」
「なら次の休みに、水族館に行きたいんだけど」
「あっ、デートの下見だね? わかった!」
練習に託けて何をしてやろうかと、時乃の悪巧みは膨らみ続けるばかりだった。




