ファースト・コンタクト S
現在の二年生がまだ桜木高校に入学したばかりとなる、一年次の四月まで時は遡る。
入学式から一週間が立った日のことだった。
茨白雪と三ノ宮姫乃の、はじまりのお話。
王子様は不在。だってこれは、お姫様だけの物語だから。
〈月曜日〉
「──話し掛けないでください」
ファーストコンタクト。三ノ宮が茨にかけられた初めての言葉は、あまりにも刺々しいものだった。
「え?」
三ノ宮はわざとらしく聞こえないふりをして──不遜な態度をとるクラスメイトと、会話のドッチボールに興じることにした。
「ごめん、もう一回言って?」
「話し掛けないでください」
「もう一回」
「話し掛けないでください」
「もうひと声!」
「話し掛け⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
茨はようやく揶揄われていることに気付いて、腹の底からの嫌悪が滲み出るような表情で三ノ宮を睨みつけた。
「⋯⋯死ねばいいのに」
「こらこら、人に死ねって言っちゃいけないんだよ? 小学生の時に先生に教わらなかったの?」
三ノ宮がそう言うと──くすくすと嘲るような小さな笑い声が、茨の耳に聞こえてきた。それはふたりの会話を興味深そうに盗み聞きしていた、クラスの女子たちから発せられたものだ。
彼女たちはお互いに目を合わせて笑っているだけで、何も言葉を口にしていないというのに、酷く馬鹿にされていることだけがはっきり分かる。
茨はよりいっそう、三ノ宮姫乃というふざけた女が嫌いになった。
「わたし、インフルエンザで入学式から今日まで一週間休んでたから⋯⋯まだクラスに友達がいなくて困ってるんだ。だからよかったら、茨さんと友達になってあげようと思って!」
日本語がおかしかった。
「なんで上から目線なんですか」
「お友達になってさしあげようと思いまして?」
「言葉が丁寧になると余計に腹立たしいんですけど!」
やたらとふてぶてしく馴れ馴れしい三ノ宮に、茨は再度きっぱりと拒絶の意志を示す。
「とにかく、わたしに構わないでください。迷惑です。あなたの友達にもなりません」
「わかった! 毎日お昼に焼きそばパン買ってきてくれたら、友達にならなくてもいいよ!」
「⋯⋯あの、もうそれただの子分ですよね?」
代替案のように提案されたが、友達よりさらになりたくないものだった。
「だって、友達は嫌だって茨さんが⋯⋯」
「なんでわたしが我儘言ってるみたいな流れになるんですか」
〈火曜日〉
「どうせ三ノ宮さんもわたしじゃなくて、兄さんに近付きたいだけなんでしょう?」
うんざりとした様子で、茨が吐き捨てるように言った。一方で三ノ宮は、言われた言葉の意味がよく分からずに首を傾げていた。
「茨さんには、お兄さんがいるの?」
「ふぅん、そうやって恍けるんですね。今度はそういうやり口ですか」
三ノ宮が口を挟む間もなく、茨はそのまま続けた。
「もううんざりなんです。このクラスでわたしと仲良くしようとする女子はみんな⋯⋯いつもそう」
「へー、そうなんだぁ。あ、わたし今日これから部活見学に行こうと思うんだよね。茨さんもついてきてもいいよ?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
あまりにばっさりと、そしてあっさりと話題を切り替えられて茨は閉口した。思っていたのと、違う。
〈水曜日〉
国語の授業が始まった直後のことだ。
「あれー? あれあれぇー? 茨さん、もしかして教科書忘れちゃったのぉ?」
茨は隣の席に座る三ノ宮から、ノートだけを広げた机を視認されてしまった。獲物をロックオンした狩人のように、三ノ宮はいつになく楽しげだ。
こいつにだけは見つかりたくなかったと、茨は苦悶の表情を浮かべる。
「そうみたいですね⋯⋯」
「ほら、こういう時はなんて言うんだっけ?」
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯さい」
「んー? 聞こえないなぁ」
「みせて⋯⋯ください⋯⋯」
「何を?」
「教科書ッ!!」
茨が思わず大きな声を出すと、教師から「そこうるさいぞー」と注意が飛んできた。
恥ずかしさで顔が真っ赤になって縮こまる茨とは対照的に、三ノ宮はけらけらとおかしそうに笑っていた。
〈木曜日〉
休み時間に茨が女子トイレに行こうとすると、中からこんな会話が聞こえてきた。
「三ノ宮さんって、やっぱり茨さんのお兄さん狙いなの?」
「なんで?」
「だって⋯⋯ねぇ?」
「ねー。あれだもんねぇ」
「うちら、いま三人グループだからさ。三ノ宮さんがよければ仲良くしたいなって思ってるんだ」
三ノ宮は『はい』とも『いいえ』とも言うことができないようなこの三人組の誘いに、一切の角を立てずに煙に巻く方法をひとつだけ知っていた。
「ありがとう! でも、もう少しだけ頑張ってみたいんだぁ。もし振られちゃったら、その時は慰めてもらってもいいかな?」
三ノ宮姫乃は──嘘吐きである。
〈金曜日〉
「三ノ宮さんは、どうしてわたしと友達とやらになりたいんですか?」
「んー⋯⋯なんとなく? 隣の席だしね、隣人を愛せよってやつかなー」
茨が醸し出す雰囲気が剣呑なことに気付きつつも、三ノ宮は月刊・古代麻雀の漫画雑誌を読むのをやめない。
入部することになった麻雀部に置いてあったものを借りてきたのだ。
麻雀の途中から、なぜか主人公の対局相手が地獄に行って鬼と戦う展開に熱く燃えていた。
「兄さん兄さんって、たぶん拘ってるのは茨さんだけだよ? みんなそんなに、人のきょうだいのことなんか気にしないって」
漫画を読みながらそんな適当な返事をする三ノ宮に、茨は唇を噛み締めた。言っていることとやっていることがまるで違う。言動が一致しない女だな、と茨は思う。
これが自分に取り入ろうとしている人間の取る態度なのかと、文句を言いたくなるくらいだ。
「三ノ宮さんには分からないでしょうね⋯⋯」
「なんでそんなに分かってもらいたいの?」
三ノ宮のこの返答に、茨はハッとした。そんなことは、自分でも考えたことがなかったのだ。
「それは⋯⋯」
その答えはまだ、見つけることができなかった。
それから、二週間後の放課後。この日の三ノ宮と茨は、連れ立って下校していた。
とは言っても──親しげな様子ではなく、むしろその逆の険悪な雰囲気だった。競歩のような早足で歩く茨に、三ノ宮がえっほえっほとついて行く構図である。
「ついて来ないでください」
「違うね。わたしが進もうとしている先に茨さんがいるんだ!」
「先っていうかすぐ隣にいるんですけど⋯⋯」
息を吸うように嘘をつく女だな、と茨は三ノ宮に対する人間的な評価をどんどんと下方修正していく。
「あ、そうそう。茨さんって白雪ちゃんって名前なんだよね? 可愛いよね。それにぜんぜん名前負けしてないとおもう!」
「褒めてますそれ? なんか気持ち慰められてるみたいな感じがするんですけど」
「そんなことないよ! わたしだったら、そんな名前で生きていけないかもって思っただけで⋯⋯」
「やっぱり馬鹿にしてるだけじゃないですか!」
嘘つきなだけではなく、無礼千万。
茨の中で三ノ宮という人間の評価が地の底まで落ちて、もう二度と這い上がっては来られないだろうというところで事は起きた。
三ノ宮が突然、茨の制服の袖を掴んだ。
「──待って。そこから先に行っちゃダメだ」
「はい? 何を言っているのか意味が分かりませんけど、わたしに指図しないでください」
「とにかくいけない⋯⋯絶対に引き返した方がいい! こういう時の嫌な感じは、だいたい当たるんだ」
三ノ宮に迸った、脳細胞の一部がちりっと焼けつくような感覚。それから少し遅れてやって来るのは、ぞわりとするような悪寒だ。
世の中には、直感というものが存在する。
麻雀で例えるならば、自分からは相手の手が揃っているかも全く分からない状況なのに、危険牌に触れた時に感じるあの言いようのない重みだ。
牌の物理的な重さは均一だというのに、なぜかその牌だけがずしりと重く感じるアレである。不思議と分かる、これは通らない──!
三ノ宮はそういう、第六感というものが悪魔的なまでに優れていた。
「あなたの戯言に付き合うつもりはありません」
茨がぴしゃりと言い切って、三ノ宮に掴まれた袖を乱暴に払い除けた。そのまま、足を前に進めようとすると──
「このわからずやーっ!!」
殴られた。グーで。顔を。
「うっ⋯⋯!」
マジかこいつ、と茨は憤慨していた。女の顔を、よりにもよって拳で殴るかと。
しかもそれは女子高生が放った一撃とは思えない威力で、茨はその場に尻もちをついた。
「絶対に行かせない! 行くならわたしを倒してからにして!」
三ノ宮は、少年漫画の悪役みたいなことを言い出し始めた。
茨の方も、売られた喧嘩は買うタイプだった。やられっぱなしは間尺に合わない。
絶対に泣かせてやると決意してからゆらりと立ち上がり、両手を前に広げて構えた。
「上等じゃないですか⋯⋯わたし、これでも武術の心得はあるんですよ。合気道ですけど」
「そうなんだ。わたしは格闘漫画で覚えた!」
──漫画かよ。
先ほどの一発は漫画の見よう見まねでできる芸当なのかと、茨はほんの少しだけ三ノ宮に感心した。
ふたりが、じりじりとお互いに距離を詰めたその瞬間のことだった。
地の底から響くような轟音がした。
地震が来たのかと思うほどの揺れがあった。
急停止した車に、車と、車がぶつかった。
おはじきのように押し出された車一台と、通行人が三人ほど落ちて行った。
大きな大きな──突然生まれた、穴の中に。
茨は、確かに見た。全てがほんの一瞬のうちに起きた。
それは下水管の破裂から起きた、道路の陥没事故だった。
怖いと思った。恐ろしいと思った。同時に、気味が悪いと思った。
──なんだ、この女は。
もし三ノ宮が時間稼ぎのための一連の行動をしなければ、通行人のうち一人は間違いなく自分だっただろうと、茨は体が竦んだ。
腰が抜けて、へたりとその場に情けなく座り込んだ。
おそらく、通行人は助からない。落下の衝撃に加え、車が頭上から落ちてくるとなれば、少なくとも五体満足とはいかない結果になることは明白だ。
「⋯⋯引き返そう?」
呆然として立ち上がることもできない茨に手を差し伸べ、三ノ宮が静かにそう言った。二次災害を考慮するならば、現場からなるべく早く離れるのは適切な判断だ。
天運に恵まれた人間というのは、不幸のおこぼれを嫌う。
好奇心は猫をも殺すと言う。野次馬根性で命を落とした人間は、けして少なくない。
「そう、ですね⋯⋯」
何かもかもが分からずじまいだった。なぜ、三ノ宮は今日に限って茨の下校に強引に付き添ってきたのかも。
ただひとつだけ、はっきりとしていることがあるとすれば──三ノ宮姫乃という畜生のような人間に、茨は大きな借りができてしまったということだ。
ふだんなら自分で立ち上がるとその手を払い除けるところだが、茨は差し出された手を素直に取った。
それでも、礼は言わない。癪だからだ。代わりに、こう言った。
「ねぇ。なってあげてもいいですよ、友達」




