あの日
三ノ宮家での、ある日の深夜のことだった。
三ノ宮時乃は、リビングのソファに腰を掛けてテレビを見ていた。
夜遅い時間なので睡魔に襲われそうになるが、観たい深夜番組があるのだ。
録画して日中に観てもいいのだが、翌日は学校もない休日なので夜更かしに支障はない。
姉の三ノ宮姫乃も、その番組を観たいと言って先刻までは起きていたのだが、今は時乃の肩にもたれ掛かるようにしてすっかり寝入っている。
姉が寝てしまってからは時乃は、部屋の電気を消し、テレビの音量も下げて微かに聞こえる程度の音で視聴していた。
身体を冷やさないようにと薄手の毛布を一枚だけ持ち出してから、姫乃の肩にふんわりと包むように掛け、時乃も同じようにしてその毛布に包まった。
この日は母親が、地方に単身赴任中の父親の元へと会いに行くために家を空けており、週明けまでのあいだ母親は不在だ。
しかし時乃としては、数泊の滞在とは言わず、母親が父親の元に戻ったまま帰って来なくてもいいとすら思う。
誰の目も届かない場所で、なんの障害もなくこうしてぴったりと姉にくっついていられることが幸せだった。
この上ない幸福な時間が、永遠になってほしかった。
──このままずっと、朝が来なければいいのに。
【次のニュースをお伝えします。昨日午後二時ごろ、川で溺れた4歳児が──⋯⋯】
テレビの向こうのアナウンサーが、抑揚のない声で訃報を読み上げる。
子どもは静かに溺れる、という。時乃はこういう『助からなかった』子どものニュースを目にすると、あの日の記憶を昨日のことのように鮮明に思い出す。
「──時乃!」
姉が自分の名前を呼ぶ声。固く握られた手の体温。この人に自分の一生を賭けて恩返しをするんだと決意した──《あの日》のこと。
それは姫乃が七歳、時乃が五歳の頃の話だ。
季節は夏で、お盆の期間だった。
世の中には迷信というものが存在する。今回の事件から言葉を選ぶならば、『お盆は水辺に近付いてはならない。連れて行かれてしまうから』といったところだろうか。
科学的な根拠など何も無かった時代に生まれた言い伝えと言うのは、これが結構あてになる。毎年夏には、多くの人が水難事故で命を落としているのだ。
その日は、父、母、姉、弟の四人家族が全員揃って海に遊びに出掛けていた。父が家族の昼食を買いに行って、大人の目が一人分なくなった時にその事故は起きた。
母は子どもたちから目を離したつもりはなかったが、大人ひとりで幼児ふたりを見るというのは容易なことではない。瞬きするなと言うのも無理な話だ。
ほんの一瞬の出来事だったのだ。時乃の姿が見当たらなくなったのは。
母は大慌てで付近の浜辺にいるはずの時乃の姿を探したが、見つからない。
まさかと思い海岸へと目を向けると、沖の向こうの水面に子どもの指先だけが僅かに見えた。
子どもが、ばしゃばしゃと音を立ててわかりやすく溺れることはあまりない。静かに、ただ静かに水底へと沈んでいくのだ。
母が時乃を見つけたのと同時に、買い物を終えて母の元へと戻ってきた父が状況をすぐに把握した。父は、息子を助けるために咄嗟に海に飛び込もうとする。
しかし──それを母が引き止めた。
時乃に母を責めることはできない。これは極めて冷静な判断だ。間違っていないどころか、この上ない最善の選択なのだから。
救助になんの知識もない素人が助けに入ったところで、二重事故になって死体が増えるだけだというのはよくある話だ。
水難事故で溺れて亡くなるのはおよそ二人に一人、と言われている。溺れた人間は50%の確率で助からず、さらに助けに行った人間が二次災害に陥った場合の死亡率は70%にまで跳ね上がる。
それならどう考えても、合理的に一人が助かるための確率を上げた方がいい。父はライフセーバーを呼びに行き、母は119番に電話を掛けた。
こうした両親の判断が一切として間違っていないことを、時乃は理解している。
なりふり構わず飛び込んだところで、共倒れするだけだ。専門家の救助を待つのが得策だ。とても責められることではない。
けれど幼い時乃は、海の中で必死に藻掻いていた。
助けて。助けて。助けて。助けて。助けて。
冷たい。暗い。怖い。苦しい。見えない。
誰か──助けて。見捨てないで。
おとうさん。おかあさん。たすけて。
両親の判断は間違っていない。だが、理屈と感情は違う。それが人間なんだ。
──それでもおれは、助けてほしかった。
時乃は幼いながらも、自分の身に死が差し迫っていることを理解していたが、両親がどうして助けに来てくれないのかは分からなかった。
「時乃!」
あのとき握られた手の温度を、きっと一生忘れることはない。姫乃は母の静止も振り切り、泳いで時乃を助けに来たのだ。
ばたばたと藻掻いて暴れる弟を、必死に離すまいとしていた。
「あばれるなっ!」
そして──ゴンッ! と、鈍い音がした。姉に渾身の一撃のようなアッパーで顎を殴られて、時乃は意識を失った。暴力は全てを解決するのだ。
しかし、これはぞんざいだが妥当な救助方法だったらしい。溺れる者は藁をも掴むと言う。
意識のある人間の救助は素人には困難で、溺れた人を助けようとした救助者が亡くなってしまうパターンが多いのもこのためだ。
しっかり浮き輪を持ってきていた姫乃は気絶した弟を抱き抱え、無理に浜辺に戻ろうとはせずに、海面に浮くだけの状態を保った。
それから暫くして、水難救助隊のレスキューボートに姉弟が揃って救助されたところで、この昔話は幕を閉じる。
時乃は知る術もないが、物語はここからが本題だった。姫乃の持つ天性の勘の良さが味方したのか、この時の彼女の選択は全てが見事に噛み合っていた。
ただの一手も間違うことなく、生きるか死ぬかの大博打に勝ったのだ。
これは、もしもの4つの未来のお話。
Q1、姫乃が助けに行かなれば、時乃は死んでいた。
Q2、時乃を殴って気絶させなければ時乃だけが助かって、姫乃は死んでいた。
Q3、姫乃が浮き輪を持って行かなければ、二人とも死んでいた。
Q4、姫乃が時乃を連れて浜辺に戻ろうとすれば、時乃は死んでいた。
どちらか、あるいはどちらも助からないはずだった。運命をねじ曲げるほどの、ギャンブラーとしての素質に恵まれたと言っていいだろう。
翌朝。姫乃が目を覚ますと、やけに身体が痛かった。
「あてててて⋯⋯」
どうやら、ソファに座ったまま寝てしまったらしい。
姫乃の身体には、薄手の毛布が全身を包み込むように掛けられており、肩には人間ひとり分の頭の重みがあった。
──と、時くん!?
弟だった。時乃は姉である姫乃の肩にもたれ掛かるようにして、可愛らしい顔ですやすやと寝息を立てていた。
姫乃はしげしげと、その天使のような寝顔を見つめる。昔はゲームで後ろからずっと着いてくるタイプの2Pキャラみたいだったのに、一年ほど前からはずいぶんと反抗的な態度をとられるようになってしまった。
思春期の子供を持つ親の気持ちが分かるというものだ。態度や口が悪くなったり、一緒に買い物に行ってくれなくなったりとか。
──どうしようかな⋯⋯
姫乃はふと、肩に掛けてある薄手の毛布に目が行く。
起きた直後は母が掛けてくれたものかと思っていたが、昨日の夜には既に不在だったことをを思い出した。
つまりこれは、弟が用意してくれたものなのだろう。根はいい子なのは変わらないようだ。
「ありがとね、時くん」
起こさないようにと気をつけながら、姫乃はそっと弟の頭を撫でる。
──ぱちり。
あ、終わった──姫乃はそう確信した。タイミング悪く、時乃が目を覚ましたのだ。彼女の脳内シュミレーションはこうだった。
『触んなブス!(同時に手を引っぱたかれる)』
しかし、寝ぼけ眼の時乃の行動は違った。
「ひめの⋯⋯」
姉の名前を呼ぶと、そのままソファに横になるようにして上から倒れ込んで来たのだ。
「んん? おー、よしよし。おねえちゃんでちゅよー」
母親が家を空けているのがそんなに心細いのかと、姫乃は見当違いな解釈をした。まるで幼子を寝かしつけるように、弟の背中に優しく触れた。
「⋯⋯⋯⋯⋯⋯」
一方で、時乃の意識ははっきりとしていた。わざわざ寝ぼけたふりをして抱きつかなくとも、姉が自分を拒絶することはないと分かっているのに。
それでも、これまでのような無邪気な関係には二度と戻れない。時乃はもう、気付いてしまった。気付かされてしまった。
──こうなったのは全部、あの目障りな女のせいだ。あいつさえいなければ。あいつさえ。
友達は選んだ方がいいと、姉に進言したくなるような女だった。
ある日、そいつは突然にやって来た。季節外れの雪のように、何の前触れもなく。
今から一年ほど前になる。三ノ宮家での、ある日の出来事だった。
「姉ちゃん、おかえり!」
中学二年生の時乃は、高校一年生である姫乃よりも少し早く学校が終わり、家に帰ってきていた。
姫乃が帰宅するとともに時乃は、最近は自分よりも少し小さくなった姉の身体に抱きつく。《あの日》からずっと時乃は、こうして姉に引っ付いていることが多くなった。
当時、五歳の時乃は母親と一緒に就寝していたが、《あの日》以降は『お姉ちゃんがいない』と泣き喚き、母の添い寝を拒絶するようになった。
それからひとり部屋を用意されるまでの二年間は毎日、姉と一緒に寝ていた。
中学二年生になった今も、夜な夜な姉のベッドに潜り込んでいる。
良心の呵責からか、彼らの母も父も、姉弟の近すぎる距離感については口を閉ざしたままでいた。
両親は、時乃を『助けなかった』自分たちと、時乃を『助けた』姫乃とは、あれから明確に一線が引かれていることを理解していた。
後遺症のような心の傷跡を子どもに残してしまったことだけをただ悔やんで──そして、何もしないことを選択した。
一切の口を出さず、全てを姉の姫乃に任せきりにした。傍観だけが、自分たちにとっての罪滅ぼしになると知っていたから。
「ただいまー。時くんにも紹介しておくね。こちら、同じクラスの雪ちゃん!」
「茨白雪って言います。よろしくね、弟くん」
「⋯⋯ん」
時乃は姉に抱きついたまま、ちらりと白雪に視線を向けてから面白くなさそうにぷいっと顔を逸らした。あからさまに来客を嫌がっていた。
「こらこら。武士は名乗りを上げるのがマナーだよ、時くん」
「我こそは三ノ宮時乃です」
「おー、えらいえらい」
よしよしと、姉に頭を撫でられて嬉しかった。
この時はまだ、時乃は姫乃とのやり取りに人目を気にするような羞恥の感情を、一切として持ち合わせていない。
これは姉弟なら当たり前で、当然のことで──だから何も悪いことなんてないのだと、心の底からそう思い込んでいた。
姫乃が「ちょっと長くなるかも⋯⋯」と、神妙な顔つきでお腹を抑えて、トイレのために席を外した途端のことだった。
「──姫ちゃんのこと、好きなんでしょう?」
透き通った声だった。何の悪意も無いと言わんばかりの。
「女の子として」
一瞬、言葉の意味が分からなかった。
しかし時乃はそれを理解すると共に、どきりとした。まるで図星をつかれた人間のように。捲し立てるように、白雪が続けた。
「隠すことないよ、見てれば分かるもん。うちにも兄がいるんだけどね⋯⋯弟くんみたいな目で、兄がわたしを見ていたことなんて一度もないよ」
──ちがう。
「応援してあげようか? 姫ちゃんは、あれでけっこう押しに弱いところあるし」
──やめろ。
「でも、うかうかしてるとわたしの兄さんが姫ちゃんのこと攫っちゃうかもね? わたしはべつにそれでもいいんだけど⋯⋯」
──いうな。
「もし、他の誰にも言えないような秘密ができたら──姫ちゃんとわたしは、もっと仲良くなれるじゃない?」
──だまれ。
「もう誰も、入り込めないくらいに。そうしたらきっと、姫ちゃんはほかに友達なんか作らないでいてくれると思うの」
茨白雪。この性根の腐った女さえいなければ、時乃は自分の気持ちに気付くことなんてなかったのに。
「好きじゃない⋯⋯! あんなブス、好きなわけないだろ!!」
こうして、時乃の反抗期が始まった。




