あいつが来た!
掃除の時間のことだった。
「キャー!」
「いやぁぁぁ!」
「助けてー!」
2年4組の女子生徒たちは、まるでゾンビ映画に登場する一般市民のように逃げ惑っていた。
三ノ宮姫乃もまた、そのうちの一人であり──縦横無尽に動き回る黒いあいつから逃げることに必死だった。黒いあいつとはもちろん、Gから始まる黒光りした昆虫のことである。
現在、この教室ではちょっとしたパニックが起きていた。教室の外に出ればいいじゃないか、というのはそうだ。誰もが同じことを考えた。
全員が、我先にと雲霞の如く二つの出入り口へと殺到したが──そこには黒いあいつの友達だか家族だかわからないが、とにかく仲間が鎮座していた。
黒いあいつは群れを作っていたのだ。出入り口は既に塞がれている。
女子は教室内、男子は廊下側と二手に別れて清掃をしていたために、教室内は非戦闘員(女子)で構成されており、頼りになりそうな戦闘員(男子)もいない。
もうおしまいだ、と三ノ宮が全てを諦めかけていたその時。
「人間を無礼るなぁーーー!」
勇者がいた。その声の持ち主はというと、逆瀬川水菜だった。箒を刀のようにして持ち、黒いあいつへと勇敢にも単身での勝負を挑んでいた。
「がんばれ水菜ー!」
「いけー! やれー!」
「やってしまえー!」
クラスの女子生徒たちから熱い声援が彼女に送られる。その凛々しい後ろ姿は、さながら剣士のようだった。
「悪・即・斬!」
逆瀬川はそう声を上げながら、黒いあいつへと刀(箒)を振り下ろす。
「やったか!?」
女子生徒の誰かが、そう言ってしまった。それはもう、言ってしまったが最後の台詞だった。
同時に、手応えがないのを察した逆瀬川が再び声を張り上げた。
「ダメ、そっち行った! みんな逃げて!」
『今、何かしたか?』とでも言うように、黒いあいつは全くの無傷でその場から飛翔した。
──ちゅ。
もし黒いあいつが人間サイズの生き物であったなら、そんな擬音がしていたことだろう。
それは、黒いあいつからの頬への接吻だった。
驚きのあまり、三ノ宮の瞳孔がぐわりと開く。
己の身へと降りかかった受難に脳の処理速度が追いつかず、彼女はまともに意識を保っていられなくなり──勢いよく床へ倒れ込んだ。
「三ノ宮さんが死んだ!」
女子生徒の一人がそう叫んだ時だった。
「三ノ宮ッ!」
ヒーローは遅れてやって来る、と言うがこの場合は少し遅すぎた。教室の外から血相を変えた様子で美男綺麗が駆けつけ、三ノ宮を抱き抱えるように起こす。
「⋯⋯び⋯⋯なん⋯⋯く⋯⋯ん⋯⋯」
「何も言うな。保健室まで送る」
これが噂に聞くお姫様抱っこか、とその茶番を傍目に見ていた逆瀬川は思う。がくり、と三ノ宮の意識が完全になくなるのを確認してから、彼女は美男の方へと近付いて声を掛けた。
「ねぇ、前から聞きたかったんだけどさ。美男って、姫乃のどこが好きなわけ?」
美男綺麗、この男はとんでもなくモテる。しかし、これまで告白の類は例外なく全て断ってきていたはずだ。泣かせた女は数知れず、《難攻不落の美男子》という異名もついているくらいなのだ。
そんな男子が、ろくに接点もなさそうな三ノ宮姫乃のようなボッチ女を選んだ理由を、逆瀬川はどうしても知りたかった。
「どこ、と言われると難しいんだが──たぶん、逆瀬川と同じだ」
なるほどこれは手強い、と逆瀬川は思わず笑みを漏らした。
──あいつが来た。
「ぎゃぁぁぁー!」
「来ないでー!」
「ママぁー!」
2年4組の女子生徒たちが次々と絶叫を上げ、脱兎のごとく逃げ惑う。
まるで地球に宇宙人が侵略してきたかのような、阿鼻叫喚の地獄絵図だった。
Gから始まる黒いあいつが、またも集団で群れをなして現れたのだ。
今回の清掃も男女に別れていて、相変わらず戦闘員(男子)は不在だ。女子は廊下側、男子は教室内という配置だった。廊下側は清掃範囲が広いため、さらに女子はそこから二手に別れて掃除をしていた。
今回、廊下エリアを担当していた女子のAチーム(仮称)は難を逃れたが、階段エリアを担当していた女子のBチーム(仮称)が悲運に見舞われている状況である。
上下階へ向かう階段を挟み撃ちにされ、逃げ場は既にない。
Bチーム(仮称)の女子生徒たちは全員が命からがら踊り場へと避難しているが、それも長くは持たないだろう。じりじりと迫り来る黒いあいつに、為す術もないのだから。
「ここまでか⋯⋯」
三ノ宮が全てを諦めたように、そう呟く。
生命線とも言っていい頼みの綱である逆瀬川を見れば、彼女は丸腰だった。ゴミ袋を持ち運びする係だったのだ。
三ノ宮もまた、ぞうきんという最弱装備であり、これではとても戦えそうになかった。
武器を調達しようにも、他の女子生徒たちが盾としての性能も持つ箒をそうやすやすと手放すとも思えない。外敵と戦う時の人類はいつだって内戦ばかりで、手を取り合うことさえできないのだ。
「道を⋯⋯退け!!」
しかし、それでも逆瀬川は最前線へと出た。
「生身で戦うなんて無茶だ!」
前方に敵は3体。数も圧倒的に不利のこの状況で、勝ち目があるとはとうてい思えない。三ノ宮が逆瀬川を引き止めると、彼女はスッ⋯⋯と両手を前に出して、手刀の構えにした。
──まさか、虚刀流の使い手だとでも言うのか。
「でも、敵は3体もいるんだよ!? ひとりじゃとても⋯⋯」
三ノ宮がそう言うと、逆瀬川は首を振って静かに答えた。
「あたしが3人ぶんになる⋯⋯!」
逆瀬川の決死の覚悟に、三ノ宮は自分が恥ずかしくなる。
自らも覚悟を決め、ゆっくりと深呼吸してから──手にしていたぞうきんを床に投げ捨て、最前線へと足を踏み出した。
「わたしも混ぜろよ」
三ノ宮は自らの思い描く、《最強》の格闘家のファイテングボーズをした。
両の拳を握り、左手と左足を前に。右手を顎の位置で構え、右足を後ろに。
漢を見せてきたこの友人に、逆瀬川はくすりと笑う。
「あたしが2体やるから、姫乃は残った1体をお願い!」
「応!」
ふたりは、徒党を組む黒いあいつたちに一斉に飛びかかる。
逆瀬川はまず1体を見事に撃破し、残るもう1体との交戦中だ。
三ノ宮はそんな彼女の姿を、横目で見ながら思う。
──おそろしく速い手刀。わたしでなきゃ見逃しちゃうね。
黒いあいつに三ノ宮の初撃はかわされてしまったが、自分も負けてはいられないと、拳を再度固く握りしめて彼女はまた一歩前へ出る。
──右ストレートでぶっ飛ばす!
三ノ宮は、渾身の一撃を放った。
「やったか!?」
女子生徒の誰かが、お決まりの台詞を言ってしまった。
その言葉と共に、三ノ宮は床に突っ伏して意識を失っていた。後方にいた女子生徒の一人が叫ぶ。
「三ノ宮さんがまた死んでおられるぞ!」
黒いあいつは三ノ宮の左手の薬指に、まるで指輪のようにがっしりとしがみついていた。
──あいつが帰ってきた。
「駆逐してやる!!」
「もう、絶望する必要なんてない!」
「跪け」
しかし、今回の2年4組の女子生徒たちは一味違った。
これまでは人類の敵、Gから始まる黒いあいつにただ逃げ惑うことしかできなかったが──今回は完全武装している。
Gジェットと書かれたスプレー缶を、全員が携帯していたのだ。烏合の衆から一端の兵士となった彼女たちは、もう逃げるだけの弱者ではない。
本日の清掃担当エリアは教室内は女子、廊下側は男子である。お馴染みのように男女は分断されているため、女子も覚悟を据えて戦わなくてはならない運命にあった。
教室の二箇所ある出入り口の前には、当然のように黒いあいつの仲間が通せんぼしている。
「死にたいやつからかかって来なさい!」
意気揚々と前に出たのは、木津果林だ。逆瀬川水菜と同じグループの女子である。
「木津さん⋯⋯!」
ついこの間まで、隅っこで震えて縮こまっていたとは思えないクラスメイトの勇姿を見て、女子生徒が一人、また一人と前に出る。
一方、三ノ宮姫乃はまるで敗残兵のように教室の隅で丸くなっていた。
お守りのようにGジェットをぎゅっと握りしめてはいるものの──そこに戦意は無い。
「あんたも戦うのよ! 立ちなさい」
二刀流でGジェットを使いこなし、敵と交戦中の逆瀬川に叱咤されるが、三ノ宮は頑なに首を横に振った。
「無理だよ、水菜ちゃん。三ノ宮さんは前回の戦闘で深手を負っているから⋯⋯」
「安心して! 今度はうちらが守ったる!」
女子たちの逞しい背中に守護られる。怖いのはみんな同じなのに。
恐怖に怯えている場合かと、三ノ宮はやはり闘う意志を取り戻そうと決心し、己を鼓舞して震える足で立ち上がった──その時だった。
「きゃぁーーー!」
女子生徒の悲鳴が上がった。
「早すぎてスプレーが効かないのがいるっ!」
親玉と思われる一匹の黒いあいつが、いた。そいつは光のような速さで、教室内を高速移動していた。
「来たわね⋯⋯」
逆瀬川は手にしていたスプレー缶を投げ捨て、両手を手刀のように構えた。
無刀の剣士としての本気を出すようだ。
「この前は逃がしたけど、今度こそ仕留めてやるんだから!」
一騎打ちの戦いが始まるかのように思えた。しかし、黒いあいつは呆気なく逆瀬川の横をすり抜けて行った。
「しまった!」
黒いあいつはそのまま、真っ直ぐ狙いを定めるかのように三ノ宮に向かっていった。
──ちゅっ。
マウストゥーマウスだった。突如として唇に訪れた感触を前に、三ノ宮は一瞬で教室の床に倒れ伏した。
「なん、で⋯⋯いつもわたし⋯⋯だ⋯⋯け⋯⋯」




