第9話 魅了魔法は危険です
イリスが叫んだ途端、エアネストとの間にパチパチと小さな光が瞬いた。一瞬、時が止まったかのようにエアネストが動かなくなる。
「?」
イリスが恐る恐る手を下ろして彼を見ると、固まっていたエアネストが不意にがくりとひざまづいた。
「な、何?」
驚くイリスの目の前で、エアネストが頭を押さえて小さく首を振る。
そして、うつむいていたかと思うとゆっくりとイリスを見上げ、うやうやしくスカートの裾を手に取り口付けた。
「怖がらせて悪かった、愛しい人」
「???」
一体何が起こったのか。
熱っぽくとろけるような目で見つめられたイリスは、まじまじと彼を見下ろす。
「あの……、閣下?」
「君を傷つけるつもりはないんだ。信じてくれないか」
唖然とするイリスに構わず、エアネストはその美貌に見たこともないような優しげな表情を浮かべていた。
これは——まるで別人。
氷の宰相の異名はどこに行った? と、イリスは心の中で呟く。
突然の変貌に混乱するも、しばらく後にハタと気がついた。
(もしや、コレは魅了?)
夢魔が自身の欲望を叶えるために持つという、相手を意のままに操る魔法。この魅了魔法が無意識に発動したに違いない。
助かった、と一瞬思う。
しかし、魅了に掛かったと思われる彼の色気はとんでもなかった。サファイア色の瞳が潤みをもってまさに宝石のように輝き、頬は僅かに薔薇色に上気して何とも言えぬ艶を醸している。
彫刻のように硬く冷たいはずの彼の変貌は、それでも彼の持つもともとの気品と相まって、老若男女誰もが心を惑わせられるレベルだろう。
(ひぃーっ! こっちが『魅了』にかかるう!)
冷酷無比と呼ばれるくらい無表情を貫いていても、その美しさは芸術的だと信者を増やしているという。その彼の本気の笑顔は、真正面から受けてはいけなかった。
自分を見上げる宰相の完全に恋人を見るような視線に心臓が跳ね上がり、イリスは目をつむってわたわたと両手を振る。
「ちょっ……、閣下、きっと先程ので閣下に魅了の魔法が掛かってしまったのだと思います。私が夢魔のせいなので、気を確かに持ってください!」
「君が本当に夢魔ならば、私に良い夢を見させてくれないか」
氷の宰相は、氷が溶けて熱湯になっていた。意味深な台詞を吐きながら、立ち上がったエアネストはイリスの身体を強く抱きしめる。
「◯※△☆!!」
『ボディタッチは厳禁で』、先にそう言っておくべきだった。何故か夢の中なのにエアネストから梔子のような華やかで甘い香水の香りがする。
その香りに包まれたまま、イリスはふうっと気が遠くなった。
*****
翌朝、目を覚ましたイリスが駆け込んだのは、アロイスの研究室だった。
重い木の扉をバタンと勢いよく開いたイリスの目の前で、ちょうど休憩中だったらしいアロイスがコップを片手に飛び上がる。
「アロイス! 絶対無理よ、どうにかして!」
「突然なんだよ、イリス。びっくりするじゃないか」
戸惑いながらもイリスの迫力に押されて部屋に入れたアロイスは、鼻息も荒い彼女をソファーに座らせた。そして、薬草と魔導書が積み上げられたテーブルにもたれ、何が起こったのかと話をうながす。
イリスが先程の夢の話をアロイスに説明すると、彼はふむふむと聞いて目を丸くした。
「へえ、『魅了』が使えるんだ。面白そう」
「面白くないわよ。こっちにその気がなくても迫られるのよ」
イリスの必死な様子に、アロイスは飲み切ったコップをテーブルの上に置いて首を傾げる。
「うまく使えば犯人かどうか聞き出せそうじゃん」
「どう上手く使えっていうの」
「魅了魔法には従属の力があるから、主人の命令には逆らわないはずだろう」
「彼に命令しろって? あの宰相に?」
「どうせ夢なんだから、本物の夢魔みたいに演じればいいじゃないか。その魅了の能力を使ってさ」
僕も女の子に迫られたいよ、と呟くアロイスの緩んだ顔を睨みつけて、イリスはフンと腕を組む。
「無理よ、アロイス。私、人間一般得意じゃないけど、男の人は特にダメなの。あのエアネスト宰相の前で普通に喋れると思う? それに男の貴方でもあの色気の前では正気を失うと思うわよ」
「イリス、君、僕やライナー様にはへっちゃらじゃないか」
唇をとがらすアロイスに向かって、イリスはきょとんとした顔をした。イリスにとって魔術師の彼等は男性のくくりに入っていない。
テーブルの上に積み上がっている本の上に手をついて、アロイスがちょっと聞くけど、とイリスの目を見る。
「イリス、ライナー様のことはどう思ってるの?」
「変人上司よ」
「じゃあ、僕のことは?」
「むかつく同僚」
「え、ひどくない?」
「私にライナー様を押し付けたくせに。貴方が逃げたせいで私が苦労してるんじゃない!」
「だから悪いと思って手伝ってるじゃないか」
アロイスも毎日国王の元を訪れ、毒薬が入れられていないかチェックすることになっている。昨夜も泊まり込みで毒の分析をしていたのだろう。徹夜明けの一息ついた時にイリスが飛び込んできたのだ。
多少迷惑をかけている自覚はイリスにもあるが、変な呪いまで被ってしまった自分に比べたら、この程度の文句は言っても許されると思う。
「でも、宰相はそんなに凄いの?」
「普段笑わないのは正解だわ。あんな笑顔振り撒いていたら、誤解した人達の争いで犠牲者が出るところよ」
「本当かなあ。イリスは色恋にうといしなあ」
アロイスはもしゃっとしたイリスの姿を見てうーんと唸った。
「とにかく、イリスは少し男性に慣れた方がいいよ」
「慣れるって、どうすればいいの」
「そうだな」
アロイスがイリスの顎を持って顔を近づける。
「これはどう?」
「どう、って何が?」
「……僕が男だと思われてないってよくわかったよ」
傷ついた顔をしてみせるアロイスに、イリスは何を今更、と冷たい視線を向けた。
アロイスは『これはこれで懐いているからいいのかな』と、ぶつぶつ呟いている。
「しかし、このイリスを動揺させるんだから宰相はさすがだね」
「さすがもどうも、容疑者でなければ近寄りたくないのよ、怖いから」
イケメンは苦手だ。しかもそれが権力者だとすればなおさらイリスはすくんでしまう。そんなイリスの様子を見て、アロイスは仕方ないといったふうに肩を落とす。
「最初から難易度が高いのを選んじゃったんだね。まずはラスボスの宰相は置いといて、別の容疑者から探ろう」
アロイスの言葉にイリスもこくりと頷いた。




