第10話 少しの憂い
アロイスの部屋を出たイリスが次に向かったのはライナーの研究室だった。別の人物を先に調べるにしても、上司に報告しないで勝手に動くわけにはいかない。きっと彼も昨夜の報告を待っているだろう。
ライナーは私生活が謎な人物だ。はっきり言って性格がとても変わっているので、きっと独身なのだろう、とイリスは勝手に思っている。
彼はいつ自宅に帰っているのかもわからない。いつ行っても部屋にいるので、おそらくほとんど帰らず研究しているのだろう。
しかし、この日は珍しく不在だった。
「どこへ行ったのかしら」
ずいぶん部屋の前で待っていたが、扉の鍵はかかったままだ。
イリスが一旦戻ろうかと思っていると、奥の廊下からライナーが歩いて戻ってくるのが見えた。
「ライナー様、どこに行っていたのですか」
「宰相に呼び出されていたのだ」
「エアネスト宰相に? 何の用だったのですか」
「陛下の治療はどうなっているのか聞かれた」
昨夜の夢でエアネストは宮廷医のバルウィンと話す夢を見ていた。国王の病状が気になっていたのかもしれない、とイリスは納得する。
「それで、なんと答えたのですか?」
「まだ治療魔法の研究中だと答えてある」
ムスッとしたままライナーは答えた。どうも気に食わない会話だったらしい。
なかなか治せないことを責められたのだろうか。エアネストは有能なだけに、仕事についても厳しそうだ。
ライナーの眉間のシワをじっと見ていると、彼は気にするなと言ってイリスに報告をうながした。
「昨日、奴の夢の中に入っただろう。どうだったんだ」
「それなのですが、バルウィン様は容疑者からはずしても良いかもしれません」
イリスは夢の中での事と、アロイスと別の人物から調べることにしたことを話す。すると、エアネストに魅了の魔法が掛かったのを聞いたライナーは、呆れたように叫んだ。
「抱きしめられて気絶? なんて情けない奴だ!」
「ですから私にやらせるのが間違いだと思うんですけど」
「もっと男に免疫をつけろ。私が練習台になってやる」
「いえ、結構。ライナー様がやるとただのセクハラです」
あっさりと拒否されて、ライナーはグッと言葉に詰まる。
「さてはお前、顔の良い男に弱いのだな」
「というよりは年齢が」
「そこまで年は食っとらん!」
イリスの返しにライナーは憤慨するが、無駄な言い合いだと悟ったのかコホンとひとつ咳払いをした。
「それで、宮廷医のバルウィンは犯人ではないというのか?」
「はい。宰相との会話が本当にあったことなら、という前提でですが、あの言い合いを聞く限りでは本心から陛下を守ろうとしているように思えました」
「ふむ……、わかった。バルウィンには本当に宰相とのやりとりがあったか探りを入れよう」
これで一つは解決しそうだ。バルウィンが味方であると分かったなら、アロイスの協力者ができ警戒も少し楽になる。
「ライナー様、エアネスト宰相は難易度が高すぎるので、まずは違う人から攻めようと思うんですが」
「違う人間?」
「侍従長なんてどうでしょう」
彼はそこそこ年配で小太りのおじさんだ。何度か話したこともあるし、イリスもそう緊張するタイプの人ではない。
「うむむ、アレにセクハラされる方がきついと思うが……」
「ええ? あの方にはときめかない自信があるので大丈夫と思いますけど」
ライナーは顎に手を当てて悩んでいるようだったが、まあいいか、と頷いた。
「魅了を使えばお前の言うことには逆らうまい。上手く使え」
「はい」
ずいぶんと心配されている気がするのに引っかかるが、この上司にも部下を気遣うというスキルがあったのかと感心する。
「魔法陣の使い方はわかっているな」
「もちろんです」
きびすを返して出て行こうとして、イリスは足を止めて振り返った。
「そういえば、私の解呪の研究は始めてくれています?」
ライナーのことだ。念を押しておかないと、利用できると思えば解呪を躊躇う恐れがある。
案の定、彼は全くやる気がなかったようだ。
いるのか? という顔をしている。
「せっかく魅了ができるのがわかったのに?」
「部下に事故で呪いを掛けたと、魔塔の長に言いつけますよ」
「わかった、わかったからもう少し待て。彼の説教は長いんだ」
世界中の魔術師を統括する魔塔の長のマーリンに呼び出されるのは、流石のライナーでも嫌らしい。
よしよしと思いながら、イリスはライナーの部屋を出た。
廊下を歩いて戻っていると、角の向こうから話し声が聞こえる。
「じゃあ、最近は地方の田舎でも白いパンが食べられるの?」
「らしいわよ。魔術師の研究で小麦がたくさんとれるようになったらしいの。それに領主が粉挽き場の使用料を取るのを禁じたらしいわ。オステン様は文句を言いに来ていたけど」
「地方の貴族達は税金を取り過ぎなのよ。いい気味だわ」
「そうそう。他にも陛下が前の王様の時代に税金の二重取りをしていた領主を罰して、新しい領主を配置したのよ。税金もずいぶんと減ったみたい」
「フリードリヒ陛下になってから、庶民には良いことばかりね」
そう話していたのは、壁掛け燭台の蜜蝋の蝋燭を交換しているメイド達だった。
パリっとしたお仕着せを着た彼女達は、貴族の令嬢のように華やかな姿はしていないが、美しく髪を纏めてきびきびと働いている。そして、宮廷魔術師の格好をしているイリスを見ると、作業の手を止めてうつむきお辞儀を見せた。
なんとなく気まずく感じながらすれ違い、ほっと息を吐く。
長くとき流したままの自分の髪をちょっと触って、イリスは歩く速度を早めた。




