第37話 漆黒の闇
シュトイベン大尉はイリスに向けて、再び銃口を向けた。
「女、男爵令嬢を匿うと、お前も同罪だぞ」
冷ややかな声がイリスに投げかけられる。イリスは銃を構える兵士達を睨みつけて、敢えて静かに問いかけた。
「これは国王陛下の命令でしょうか。大尉、王国軍人が街中でそのような銃を持ち出し市民を威嚇するなど、許されることではありません」
イリスの言葉は彼の後ろにいる部下達への牽制だ。シュトイベン大尉は国王暗殺未遂犯の追跡という名目で部下を動かしているに違いない。だが、フリードリヒがこのような事を許可をするはずがない。明らかに大尉の独断。その部下も処罰は免れない。
市民の多い街の中心部、マスケット銃は脅しだろうが、もし発砲すれば撃たれた身体は蜂の巣になる。男爵令嬢——、抵抗などできるはずもないか弱い女性を捕える装備ではない。
杖を出す動きすら危険だ。イリスは素早く口の中で呪文を唱えた。
「そこを退かねば撃つ」
「退かないわ」
大尉が引き金を引くより早く、前方へ向けて左手を開く。イリスの目の前に青い魔法陣が広がり、その円の中心部から突如現れた水流が、嵐の後の濁流のように男達を襲った。
「うわあっ!」
水に身体をさらわれ地面に叩きつけられた兵士達が叫ぶ。大尉は大量の水を被りながら、杖を取り出したイリスに向け短銃の引き金を引いた。
カチッ
火蓋が擦れる音がするが、銃は中まで水が染み弾が出ない。大尉は奥歯をギリと噛み、片膝をついた状態からぐいと立ち上がった。
「くそっ、忌々しい魔術師め。撃て!」
ドォン! ドォン!
水に濡れた銃のうち、二発が火を吹いた。耳をつんざくような音とともに白い煙がパッと広がり、硝煙の匂いが辺りに漂う。
もうもうと立ちこめる煙が互いの姿を隠した。
「やったか?」
目を凝らす大尉を包む煙が、風に吹かれてサアと晴れる。
次の瞬間、立ち上がった兵士達は不思議なものを目にした。
「なんだこれは——?」
視界を遮るもののなくなった空間に、黒い闇が広がっている。
どこまでも純粋な黒——。
前方だけではない。左右も後方も、見る限りを闇に囲まれていた。
その闇が渦巻いている。否、動いているのは見えない。だが、ざわざわと蠢めいているのだ。そう、感じる。
闇の向こうから声がした。
「動いては駄目よ。吸いこまれると精神が壊れるから」
見上げると、彼等の頭上には巨大な黒い魔法陣が、ゆっくりと回転しながら禍々しい光を放っている。
『漆黒の闇』
イリスが魔塔で編み出した、最高で最凶の闇の魔術。空を覆う黒い魔法陣から生み出される暗黒の渦は、全てを飲み込み無へと帰す。
「うわあーっ!」
一人の兵士がマスケット銃の先端に取り付けた剣を振り上げた。そして、叫びながら取り囲む闇へと突き刺す。
ズブリ
漂うように黒い闇が揺れ、銃剣を包んだ。カプリカプリと銃がのみ込まれてゆく。生き物のようなその動きに男は蒼白になった。
「ああっ」
黒い霧に飲み込まれてしまう前に、慌てて男は銃から手を離す。この檻からは逃げる事は不可能だ。それを見ていた残りの兵士達の間に動揺が走る。誰かが『ひっ』と小さな悲鳴をあげた。
「狼狽えるな!」
シュトイベン大尉が浮き足立つ部下を一喝する。
イリスは闇の外から話しかけた。
「大尉、貴方は裁かれなくてはいけないわ」
「俺は軍法会議にかけられ、どの道極刑だろう。ならばゾフィー嬢、彼女も道連れだ」
遠くから近付いてくる足音を聞きながら、イリスは小さく首を振った。
「それを決めるのは法よ」
イリスがパチリと指を鳴らすと、闇はかき消すように晴れる。
辺りの景色が戻りきょろきょろと見まわす彼らの目に、大勢の兵士が走ってくるのが映った。そして、あっという間にシュトイベン大尉の一団を取り囲む。兵士達の後ろから一際体格の良い将校が出て来ると、厳しい顔付きで大尉を見下ろした。
「王国軍人ともあろう者が見苦しい真似をするな」
「私は陛下に手を出してはいません。毒を飲ませたのはマルヴィッツ男爵令嬢です」
「貴様が彼女を逃げられぬようにしてな」
静かな声だが、そこには反論など許されないほどの怒りが込められていた。恐ろしいほどの威圧に大尉はぐうと呻く。
「連行しろ」
轟くような命令に、兵士達が一斉に彼等を捕縛する。
それをじっと見つめていたイリスは、将校に近付くと頭を下げた。周囲より群を抜いて背が高い偉丈夫は、イリスも執務室でよく顔を合わせた人物だ。
「ヴィルヘルム大佐、駆けつけていただきありがとうございます」
ヴィルヘルムはイリスに向き直ると、深く頭を下げる。
「申し訳ない、イリス殿。彼を取り逃したのは私のミスです」
「いいえ、逮捕命令前に彼は気付いたのでしょう。ゾフィー嬢を連れ出す時に、王妃宮を出る私の姿を見て疑いを持ったのかも。この家まで突き止められるとは思っていませんでした」
家を振り返ると、ゾフィーが戸の隙間から覗いている。イリスが手招きすると、急いで外へ出てイリスの腕にしがみついた。
大佐は二人を見ながら心配そうな顔をする。
「何発か銃声が聞こえました。どこもお怪我はありませんか」
「ありません」
「彼女を保護したのが貴女で良かった」
大佐はイリスの家の壁に光るものを見つけると、めり込んだ銃の弾を指で取り出し手のひらにのせる。そしてそれを握りしめると、ズボンのポケットにしまい込んだ。
「閣下が心配しておられます。宮廷にゾフィー様のお部屋を用意しました。お二人共、私と共に参りましょう」
ヴィルヘルム大佐は身をひるがえすと、イリス達を先導する。その後について歩きながら、ゾフィーが恐る恐るイリスに尋ねた。
「イリス……、大佐と親しかったの?」
「え、顔を知っているっていうくらいかしら。あんまり話した事はないけど」
「彼、素敵よね。逞しくてストイックで」
大佐を見るゾフィーの目がハート型になっている。イリスは前を歩く広い背中をまじまじと見つめて、うんと頷いた。
「大人の時は渋くてかっこいいかもね」
「どういうこと?」
ゾフィーが不思議そうな顔をする。
「ん? いや、まあ……」
『ばぶう』と言いながらおもちゃを振っていた大佐を思い出し、イリスはへらりと笑って誤魔化した。




