第35話 魔術師に戻りました
ライナーにゾフィーを預けた後、イリスはアロイスの部屋を訪れた。イリスが小瓶を差し出すと、アロイスは無言で頷き奥の部屋へと消えていった。
イリスはほっと息を吐く。アロイスなら、すぐに毒の鑑定結果を出してくれるだろう。
王妃の宮殿から脱出させる時、イリスは闇魔法をゾフィーに掛けた。幻影の魔法は門兵から彼女の姿を隠す。彼女の行方をまだ誰も知らない。
そして、ライナーならゾフィーを任せても安心だ。彼は性格には難ありだが、曲がりなりにも魔術師長。魔術の腕は一級である。
そして、イリスは急いでエアネストの執務室へと向かった。
「閣下、ご在室でしょうか」
ノックとともに声をかけると、返事の代わりにいきなり扉が内へ開く。エアネストはイリスの手首を掴み、背中に腕を回して中へ引き込んだ。
「待っていた、イリス」
思わぬ距離の近さに、イリスは『ひゃっ』と声をあげかける。バタンと扉が閉まると、彼はイリスの赤い瞳を見つめた。
「シューレンブルク公爵夫人から、君とマルヴィッツ男爵令嬢の姿が見えないと連絡があった。大丈夫だったのだな」
心配してくれていたらしい。彼の安堵のこもった声に、イリスはきゅんと胸が高鳴る。赤面するイリスにエアネストは『あ……』と気がつき、慌てて握っていた手を離した。
「すまない。それで男爵令嬢は?」
「今は魔術師長が保護しています。彼女は陛下に毒を盛っていた事を認めました」
「君の言う通りだったわけか」
エアネストの問いに、胸の動悸を隠しながらイリスはこくりと頷く。
「彼女は父親に脅されていたようです。彼女は裁判で証人として立ってくれるはず。彼女が持っていた目薬は、アロイスが現在鑑定中です。陛下の飲まされた毒物と同じものであるかわかりしだい、こちらに報告書を持ってくるでしょう」
「さすが、早いな」
これで証拠はそろう。
「ゾフィー嬢に指示をしたのは男爵ですが、その後ろにはオステン殿がいるようです。男爵は彼から借金をしていたようで。そして、彼と繋がりがあるのでしょうか。近衛部隊のシュトイベン大尉がゾフィー嬢の見張り役をしていました」
イリスの報告にエアネストがわずかに顔をしかめた。
「わかった。陛下に報告して、彼等をすぐに拘束しよう」
これで毒殺未遂事件は終わる。
イリスはほっとするとともに、一抹の寂しさを感じた。
「閣下、私はゾフィー嬢の護衛に戻ります」
「ああ、ありがとう」
イリスはエアネストに背を向ける。
一歩を踏み出した時、イリスの背に向けて彼が声を掛けた。
「イリス、落ち着いたら後で話をさせてくれ。今回の報酬とは別に、君に感謝を伝えたい」
「承知いたしました」
イリスは振り返ると、深くお辞儀をして部屋を出る。
——報酬。
そう、これはあくまでも『仕事』だ。彼との関係は上司と部下に過ぎない。それも一時雇われただけの。
〈イリスは色恋にうといしなあ〉
アロイスの言葉が頭に浮かぶ。
(うといよ……。どうしていいかわからないもの)
はじめは怖かった。逃げ出したいと思っていた。
けれど、彼の側で彼を見ていてその優しさに気がつくと、今度は離れるのが辛くなった。この気持ちをイリスはどうすることもできない。
イリスがもとの宮廷魔術師に戻ると、もう宰相であるエアネストと話すことはなくなるだろう。彼と顔を合わせることすらほとんどなくなる。
(いっそ、本当に転職してしまえばいいのかな)
別の国に行き新しい職場になれば、慌ただしさの中でこの想いも忘れるだろう。初恋は実らないもの。誰かがそう言っていた。
ライナーの起こしたあの暴発事件の時からずっと、転職しようと決心していたはずなのだ。しかし、ふとエアネストに言われた台詞を思い出す。彼はイリスにこの国に残って欲しいと言っていた。待遇も考えるからと。
わずかな希望がイリスの中にポツリと雫を垂らす。しかし、それにすがるのは愚かしい事のようにも思えた。
期待を持つのは馬鹿だ。彼をこれ以上好きになってはいけない。
そう、深入りする前に早く——。
イリスは俯いたまま、とぼとぼとライナーの研究室へと向かった。
ライナーの部屋に着くと、扉の取手に冷気を感じてイリスは触るのをやめる。
ふと見ると、扉の表に大きな貼り紙がしてあった。
【危険な実験中 入室禁止】
イリスはぷっと吹き出した。この部屋でこんな貼り紙を見れば、他の魔術師達も誰も中に入ろうとは思わない。ライナーらしい工夫にイリスは感心する。
(氷の精霊の結界かしら)
不用意に入ろうとすると手が凍りついてしまいそうだ。
「ライナー様、いますか?」
イリスが呼びかけると、中から返事が聞こえる。しばらくして鍵が開く音がした。
「イリスか。早く入れ」
「はい」
イリスが中へ入ると、正面のソファーにゾフィーが座っている。彼女はイリスを見ると、立ち上がって駆け寄った。
「イリス、どうなったの?」
「安心して、ゾフィー。男爵様とオステン殿、シュトイベン大尉の三名は捕まるわ。薬は鑑定結果が出れば証拠として十分よ。後はゾフィー、貴女の証言も求められると思うけど」
「わかっているわ。私も罰せられるでしょうけど、覚悟はしているの」
青白く張り詰めた顔をしたゾフィーに、イリスは大丈夫よと笑ってみせる。
「宰相閣下にお願いしてあるの。ゾフィーが証人として協力するなら、身柄は保証してくれるようにと」
「でも、この国ではもう……」
男爵は爵位を剥奪されるだろう。脅されていたとはいえ、国王に毒を盛った娘を受け入れる家はない。ゾフィーは貴族であった過去を捨て、新たな名前で平民として生きることになるだろう。しかし、後ろ盾もなくいきなり下町に放り込まれて、生きていける保証はない。
カタカタとふるえる彼女の手をとって、イリスは安心するようにと言った。
「心配いらないわ。私の実家に手紙を書くから」
「イリスの実家?」
「ごめんなさい。少し遠い国になるけど、ゾフィーに相応しい仕事も紹介できると思うの」
ザクルス王国へ亡命させる。それはイリスが初めから考えていたことだ。
いくら音信不通の娘でも、イリスは実家と仲が悪いわけではない。頼めばゾフィーの後見くらいはしてくれるだろう。王妃の侍女を務められる彼女のことだ。クライスト伯爵家が身柄を保証すれば、働き口はいくらでもあるはず。
「イリス……」
言葉を失うゾフィーの肩を、イリスはそっと抱きしめた。




