第33話 ゾフィーの罪
王妃宮に戻ったイリスは、自身に与えられている部屋へと帰る。今夜、再び夢の中へ入るのだ。
ライナーから渡された羊皮紙を床に広げると、その中心の狼の胸に書かれているのは『イリス・フォン・クライスト』の名前。イリスは杖を取り出すと、その名前をかき消した。
窓に引かれたカーテンの隙間から、夜空にのぼる細い月がちらりとのぞく。風に吹かれたのであろう、木の葉が舞ってその月に重なった。何気なく振り返ってそれを見たイリスは、また羊皮紙に杖を向ける。そして、さらさらと杖を滑らせた。
『ゾフィー・フォン・マルヴィッツ』
羊皮紙の上を白い光の軌跡が走る。
「もう寝ている頃かしら」
魔法陣を見下ろして、イリスは小さく呟いた。
昼間、イリスは彼女にある仕掛けをしておいた。
〈ゾフィーの瞳って黒目が大きいのね〉
〈ありがとう。実は目を綺麗に見せる薬があるの〉
〈私も使ってみたいわ。少し分けてもらえないかしら?〉
〈ごめんなさい、お父様から薬は他人にはあげては駄目だと言われているの〉
〈内緒にするから〉
〈でも……〉
〈男爵様はそんなに怖いお父様なの?〉
ゾフィーは困ったように笑っていたが、その瞳には僅かに恐れの色が見えていた。その時、イリスは気付かれないように闇の精霊を使って、彼女に暗示を掛けた。これで確実に彼女はこの夢を見る。
イリスはゆっくりと魔法陣に書かれた呪を読み上げた。黒い靄が薄っすらとあたりに漂い始める。そして、イリスはそっと目を閉じた。
次にイリスが目を開くと、そこはどこかの屋敷の中だった。
白いテーブルの上には、可愛らしいピンク色の薔薇がいけられた花瓶が乗っている。緑色の布貼りのソファーにはクマのぬいぐるみが座っていた。壁には草花の刺繍がされたタペストリーが掛かっている。タペストリーに近付いて見ると、その端にはゾフィーの名前が小さく刺繍してあった。
ここは彼女の部屋だろう。
イリスは誰もいないことを確認すると、部屋を出て絨毯の敷かれた廊下を歩く。向かうのは階段だ。階下からは言い争うような声が聞こえている。磨き上げられた木の手すりに捕まって、イリスは扉の開いたままの部屋から漏れる会話に耳をすませた。
「どうしてもっとたくさん薬を盛らないのだ!」
「量を誤ると死んでしまうのでしょう? お父様は陛下が倒れれば良いとおっしゃっていたではありませんか」
「全く倒れておらんではないか。お前、さては薬を飲ませるのを躊躇っているのだな?」
「そんな……!」
「わかっているだろう。このままでは、我が男爵家は破産する。田舎者のオステンの奴への借金返済ができなければ領地を失い、お前も王妃の侍女どころか路頭に迷うのだぞ」
ゾフィーの声と、男の声。会話の内容から、男は父親であるマルヴィッツ男爵だろう。オステンとは、と少し考えて、イリスは国王に謁見を求めてきていた人物を思い出した。地方の無爵位貴族。彼のような広大な領地を持つ裕福な貴族は、領民の生活を変えようとする王に不満を訴えている。
(なるほどね……)
国王が倒れれば改革は止まるとでも思っているのだろうか。だが確かに中央貴族の反発もある中で、王がいなければ改革派の勢いは削がれてしまう。
イリスが考え込んでいる間にも、まだ二人の口論は続いていた。男爵の大きな溜め息が聞こえてくる。
「社交界で金も地位もある男を捕まえてくるかと思えば、一向に要領も得ぬ。せめて家の為にこのくらい役にたたぬのか」
「潰れかけと噂の流れる家の娘に、好き好んで近付く男性はいません」
パシン、と乾いた音がした。
と、同時にバタンと扉の閉まる音がする。イリスは急いで階段から元の部屋へと戻った。
イリスはゾフィーの部屋で彼女が戻ってくるのを待つ。しばらくして、キイという軋み音とともに扉が開いた。
「イリス……?」
入ってきた彼女の頬は、赤く腫れていた。イリスは少しだけ顔をしかめる。
「ゾフィー、貴女の目薬を私に渡して」
「なぜ貴女がここに? イリス、その姿は——」
「わかっているわ。貴女が陛下に薬を飲ませていたことも」
ゾフィーはびくりと肩をふるわせた。目を逸らして視線を揺らすゾフィーに、イリスは歩み寄る。
「男爵様はどうして貴女にこんな酷いことをさせるの? あの目薬は毒よ」
「知っているわ」
「使い続ければ、貴女の目も見えなくなるかもしれないの。その事も知っていた?」
イリスの問いに、ゾフィーはハッとしてイリスを見つめる。
「やっぱり教えられていないのね。飲むと毒だけれど、点眼だと大丈夫だなんて教えられていたのではないの?」
みるみる青ざめるゾフィーの肩を、イリスは両腕で抱きしめる。
「なぜ男爵様は娘にこんなことをさせるの。酷すぎるわ」
「私は……、お父様の実の娘ではないのよ。家門の一族の中から引きとられた養女なの。娘がいない男爵家にお金で買われただけの——」
貴族にとって子供の結婚も商売となる。家のために嫁がせる、ゾフィーはその為に手に入れた手札だったのだろうか。イリスが実家に戻らなかった理由も、そんな面倒な貴族社会に嫌気がさしたからだ。
目を潤ませるゾフィーに、イリスは語りかけた。
「ゾフィー、手を引きなさい。王妃様の侍女には戻れないかもしれないけれど、こんな事に手を貸してはいけないわ」
「宮廷に見張り役がいるの。だから私は逃げられない」
「それは誰?」
「シュトイベン大尉よ。彼は王妃宮の警備をしている近衛部隊なの」
なるほど、王妃宮に捜査の手が入れば近衛部隊も動く。何かあれば大尉によりゾフィーは捕らわれるという算段か。もしかしたら真実をしゃべる前に口封じをするつもりなのかもしれない。
なんて卑劣なのだろう。イリスは舌打ちしたくなった。
「ゾフィー、このままでは貴女は国王に毒を盛った罪で捕まるわ。男爵は貴女に罪を着せて逃げるかもしれない。この夢は真実なの。だから、起きたら私のところへ来て」
「イリス……」
「私が貴女を助けるから、この夢を信じて」




