第23話 理想の上司
謁見室を出たイリスは、まっすぐにエアネストの執務室へと向かった。
彼と話すのも随分慣れてきたが、案外気さくで話しやすい国王に比べるとまだドキドキしてしまう。
扉の前で深呼吸をして、心の準備をしてからノックをする。
「イリオンか。入っていいぞ」
すぐに返事が返ってきて、イリスは扉を開いた。
(あら……)
ヴィルヘルム大佐がいる。彼等は何かの相談をしていたようだった。
「お邪魔でしたでしょうか」
「いや、もう話は終わった。大佐、いいな?」
エアネストに問われたヴィルヘルムは頷く。
「お任せください。先日、幼い頃に亡くなった母に叱られる夢を見ました。きっとしっかりしろと警告しにきたのだと思うのです」
「そうか、では頼む」
「はい」
大佐は一礼すると、イリスの隣を通り過ぎて出て行った。
(大佐のお母様は亡くなってらしたのね……)
殴ってしまって悪いことをしてしまったかしら、とイリスが考えていると、エアネストが近くへくるよう目配せした。イリスは扉を閉め、彼の立っている机の前まで歩いていく。
「今日は陛下の周囲で変わったことはなかったか」
どうやら二人は議会の話をしていたらしい。イリスは紙に書かれた文字を拾い見て、そう推測した。広い机の上には、次の議題であろう文字がびっしりと書き込まれた紙の束に加えて、難しそうな法律の本や軍の資料が積み上げられている。
国王と同じで、この人も大概仕事に追われている。そう思いながらイリスは口を開いた。
「今日はシュヴェリーン伯爵とヘルツベルク殿が来られました。シュヴェリーン伯爵は平民を裁判官に採用するのには反対だそうで、陛下が説得されましたが納得はされていないようでした。ヘルツベルク殿は農民の移動を許すと、領主が困ると訴えられて……。陛下は移民政策について説明されましたが、やっぱり不満そうにされていました」
「そうか……、仕方ないな」
エアネストは難しい顔で考え込む。
イリスが待っていると、しばらくして彼は顔を上げた。
「他には何かあったか? 陛下のご様子はどうだ」
「特にはありません。陛下は体調も戻って、昨夜もよく眠れたそうです」
「そうか」
エアネストは珍しくほっとした表情をする。
——やはり、おかしい。
エアネストは本当に国王を失脚させようとしている張本人なのだろうか。
イリスはここ数日で胸の中に浮かんだ疑念を反芻する。
最初にライナーに吹き込まれたせいで、自分の目が曇っているのでは?
そう思うようになったのだ。
口調はいつも冷たいが、彼はイリスに無理なことは言わない。労いの言葉も短いながらかけることは忘れない。侍従長をサポートにつけるあたりも、ライナーよりよっぽど気遣いの出来る上司だ。ついでに危険手当も約束してくれている。
冷酷な氷の宰相と呼ばれているが、実際の彼はあまり感情を表に出さないだけで冷たくはない、と思う。
イリスがじっとエアネストを見つめていると、彼は何かに気付いたように目を見開いた。
「どうした? 髪が乱れているが、何かあったのか」
「え?」
思わず頭に手をやって、イリスは『ああ』と思い出す。さっきカツラをはずして頭をかいたせいで、結んでいた髪が乱れてしまったのだ。
「少し暑くてカツラをはずしたのです。慣れていませんので」
そう答えると、エアネストはほっとしたように『なんだ』と言って息を吐く。
(心配してくれた?)
そう思った途端になんだか恥ずかしくなった。
いつももしゃもしゃの髪でいたイリスだが、なぜか彼の前で乱れた髪でいるのはそわそわする。
「すみません、みっともなくて」
結んだ髪を触りながらもじもじしていると、エアネストは不思議そうに首を傾げた。
「なぜ謝る? 君はとても有能な人だし、こんな無茶な依頼を引き受けてくれてありがたいと思っているが」
「ええと、私いつもこんなですし、目も隠してますし……」
それを聞いた彼は、なんだそんなことかと小さく呟く。
「侍従長から聞いている。何かトラウマがあるそうだな。誰でも一つや二つ事情は持っているものだ。気にするな」
「でも、髪もボサボサで」
イリスが俯いて恥ずかしがっていると、エアネストは『ははは』と軽く笑った。
「大丈夫だ。アンゴラウサギみたいで可愛いから」
「ウサギ……」
目が隠れるくらいのふわふわ長毛の兎に例えられて、イリスは固まる。しかし、その後の言葉も彼女は聞き逃してはいなかった。
(か、可愛い?)
可愛いなどと言われたのは、物心ついて以来初めてかもしれない。
ボッと顔が赤くなったのが自分でもわかった。
いや、彼は普通に社交辞令で、イリスを慰めるために言ったに違いない。しかし、ずっと子どもの頃の出来事を引きずっていたイリスにとって、目の前のとんでもなくハンサムな男性に褒められた事は、やはり嬉しい以外のなにものでもなかった。
イリスが言葉を失っていると、エアネストはハッとしたように真顔になる。
「すまない、失礼なことを言ってしまった。さっきのは妙齢の淑女に対する台詞ではないな」
「え……」
「女性との会話にあまり慣れていないのだ。許してくれ」
謝られてイリスは驚いた。淑女扱いなど、実家を出てからここ十年経験した事がない。イリスはわたわたと慌てて首を横に振った。
「とんでもない! ウサギは好きなので嬉しいです」
兎が好きと聞いて、困った顔をしていたエアネストはほっとしたように表情をゆるませる。きっとイリスが気をつかってそう言ったのだと思ったのだろう、彼は『ありがとう』と言って、照れたように微笑んだ。
「!」
その笑顔を見た途端、イリスの胸がきゅっと苦しくなる。
(その顔は卑怯です、閣下!)
胸を押さえて必死で耐えるイリスの顔は、髪に隠れていてもわかるくらいに真っ赤になった。
どこが女性に慣れていないというのだろう。これを無自覚でしているとは、本当に恐ろしい人だ。
イリスは倒れそうになるのを必死で隠して、急いで執務室から逃げ出した。




