第17話 大佐の子守り
父は元宮廷元帥。近隣諸国に恐れられるフロイス王国軍を実質的に率いて戦う王国軍大佐ヴィルヘルム。彼は軍の中でも特に勇猛と知られ、厳つい姿は軍神にも例えられるほどである。気の荒い兵士達も彼の前では鼠の様に隅に固まり、試合をすれば誰も彼に敵う者はいないという。
宰相エアネストの一番の腹心で、彼の信頼も厚い。
そのヴィルヘルム大佐との対決に意欲をもって臨んだイリスは、すぐに後悔することになった。
(これは一体なんなの?)
「ばぶ、ばぶう」
イリスの目の前には四つん這いでハイハイをする赤ん坊がいる。
いや、赤ん坊というのは間違いだ。
貴族の幼い子どもがよく着せられているひらひらとしたレースの襟に、薄いブルーの柔らかそうな生地のワンピースドレス。そのスカートの裾からのぞいているのは、筋肉ゴリゴリの毛の生えたふくらはぎ。
彼の周囲には遊ぶための柔らかい布でできたボールやウサギのぬいぐるみ、たくさんのおもちゃが転がっていた。
「なんで大佐がこんな夢を見ているのよ!」
呆然と立ち尽くすイリスの前を、筋骨隆々とした大きな身体のヴィルヘルム大佐がハイハイで横切ってゆく。
非常にシュールな光景だった。
イリスは半眼で、機嫌よく移動する大佐の背中を眺める。
この相手に聴き取りなど出来るとは思えない。何を聞いても『ばぶう』としか言わないではないか。
「あ、コケた!」
置いてあるおもちゃに引っかかって、赤ん坊の大佐が前方につんのめった。
ゴロン、と床に転がった大佐は額を床にぶつけたが、幸い下が毛足の長い絨毯だったため痛くなかったらしい。よいしょよいしょと手をついて身体を起こすと、彼は上手に(?)おすわりした。
「よしよし、お利口ね」
イリスがカラコロ鳴るおもちゃを手渡すと、喜んで振って鳴らしている。
「ぶつけたら痛いからこっち向けちゃダメよ」
「ばぶっ」
イリスが言い聞かせるとわかったのか、彼は頷いて反対側の遠い方の手に持ち替えた。全く意思の疎通が取れないわけではないらしい。
しかし、話せないのではどうにもならない。
「これは出直すしかないわ……」
過去の経験から、自分か相手が気絶すると夢から出られるはずだ。
いくら赤ん坊の格好をしていても、この大佐をどうにか出来るとは思えない。以前、調べて仕込んでおいたものが役にたつ時が来た。
精霊を使う白魔法は、魔物になっている今は使えない。しかし魔物の力を使う黒魔法なら発動するはず。イリスは魔術の本を読み漁り、夢魔の魔力を使って眠らせる呪文を用意していたのだ。
(彼の前ではなんかイヤだから、向こうに行ってやろう)
ガチャン
イリスが諦めて部屋を出て行こうとした時、カランコロンと振っていたおもちゃが床に当たって大きな音をたてた。大佐の馬鹿力でぶつけられたおもちゃの頭が折れて飛び、大佐の鼻にゴチンと当たって跳ね返る。
「うぎゃー!」
大声で泣き出す大佐に、イリスはギョッと振り返った。
「ちょっ、大佐、大丈夫ですか?」
慌ててイリスは駆け寄って、大佐の赤くなった鼻をみる。大佐は涙をぼろぼろ流しながら、わんわんと泣いていた。
幸いたいしたことはなさそうだ。というか、すっごく頑丈そうで心配するのが馬鹿らしい。
しかし、中身はまだ赤子。
ふえんふえんと泣き続ける。
「痛いの痛いの飛んでいけーって、うーん、泣き止んでくれない!」
イリスは未婚で子育ての経験がない。兄弟も兄だけで自分が下だし、トラウマのせいで親戚の子ともあまり遊んだこともない。赤ん坊の泣き止ませ方など、到底わかるはずもなかった。
これは困った、とイリスは途方に暮れる。
巨大な赤ん坊は背中をさすってやっても、一向に泣き止む気配はない。おまけに図体は大きな成人男性のため、声も大きくまるで狼が吠えているようだ。
うおんうおんと泣く男を前に、耳を塞いでおろおろするしかない。
本物の母親に登場してもらいたい、とイリスは切実に思ったが出てきてはくれなかった。
「よしよし、痛くない痛くない……。わーん、どうしたらいいの?」
その時、ふと思いついた。魅了魔法を掛けたらどうだろう。
エアネストもルイスも魔法が掛かった途端に笑顔になったことを思い出し、イリスはよし、と決意する。その後ろくでもないことになった事を、焦る彼女は完全に忘れていた。
「ものは試しっていうものね」
イリスは大佐の両肩をガシッと掴み、泣いている彼を真正面から見据える。
「ほら、こっち見てごらん!」
「びえっ……、?」
ヴィルヘルム大佐の目の前で、パチパチッと光が瞬く。
すると、泣きじゃくっていた赤ん坊の大佐は、きょとんとして泣き止んだ。
「よし、効果あった!」
ほっとしたイリスがやれやれと大佐から離れようとした時、不意に赤ん坊の大佐が野太い声で喋った。
「ママ!」
「え? ママ?」
「ママ、マーマ!」
「きゃあ!」
両手を広げた大佐が、ぎゅっとイリスに抱きつく。
自分の太腿より太い腕に抱きしめられて、イリスはぐえっと息が詰まった。
「く、苦しい……」
まさに熊。
巨体の持つ力は、彼女が腕を叩いてもがいてもびくともしない。骨がミシミシ鳴りそうな怪力だ。イリスの気が遠くなる。
(あ、このまま気を失ったらちょうどいいかも……)
イリスが諦めかけた時、ヴィルヘルム大佐の腕の力が緩んで、イリスはほーっと大きく息を吐いた。
腕の中のイリスに向けて、大佐は嬉しそうに笑顔を向ける。
「ママ、ママ、やっときた!」
「え?」
『ばぶう』以外も喋れたのか。
どうも大佐はイリスを自分の母親だと思っているらしい。ニコニコとしながら、髭のじゃりじゃりする頬をこすりつけてきた。
「痛い、痛いの。ちょっと離れて」
「いたい?」
可愛らしく首を傾げるベビー服の大男に、イリスは眉をへの字にする。
しかし、魅了魔法でほんの少し年齢が上がったのだろうか。会話ができるのはありがたい。
「ママ、ヴィー、おりこうさん」
褒めて欲しそうな表情に、イリスも少しほだされた。少し母親役をしてあげてもいいかもしれない、と思う。
「賢いわね、ヴィー」
「うふふ」
可愛くしゃべっているが、外見はムキムキマッチョだ。引いてしまいそうになるのをグッと堪えた。
それよりもイリスには大事な役目がある。
「ねえ、ヴィー。エアネスト宰相のことは知ってるかしら?」




