第12話 君の名は?
イリスは大理石の床に杖を向け、アロイスから受け取った羊皮紙の魔法陣を大きくしたものを描いてゆく。一度見た魔法陣を忘れることはない。床の上を杖が滑ると、その跡は白い線となって仄かに光を放ち続ける。
真円に渦巻く葉と蕾の図までを描ききってフリードリヒを振り返ると、イリスは軽く頭を下げた。
「陛下、どうぞこの魔法陣の上にお立ちください」
頷いて立ち上がった彼は、言うとおりに魔法陣の中央に立つ。イリスは顔を上げてそれを確認し、魔法陣に組み込まれている呪を慎重に読み上げた。
「おお……」
国王の足元から薄い緑の光がたちのぼる。
幾本もの光が蔦のように絡みあいながら彼を包み込み、そして頭上で薄紅色の光の花を咲かせた。ふわりと開いた花弁は幾重にも重なり美しく輝く。かと思うと、たちまちハラハラと王の周囲に散っていった。
花弁が大理石の床に触れると同時に、魔法陣は小さな光の粒となって宙に消える。
「終わりましてございます」
イリスは深々とお辞儀をした。
フリードリヒは自身の身体の周りを見て光が全て消えたのを確認すると、ふむと満足気に頷く。
「前にも思ったが、なんとも綺麗な魔法だな」
「お身体の具合はいかがでしょう」
「心なしか軽くなった気がする」
フリードリヒの笑顔を見て、イリスは小さくほっと息を吐く。開いた花はすぐに散った。この様子では今日は毒を飲まされていないようだ。
ふと隣を見ると、ルイスが頬を手で挟んで目をキラキラさせていた。どうやら彼もこの魔法を見るのは初めてだったらしい。
(この反応——、彼は暗殺の犯人ではないのかしら)
犯人ならば、国王の体調が戻るのは嬉しくはないはず。
わざと喜ぶフリをしているのか、もしくは純粋にアロイスの魔法の美しさに感動しているだけかもしれないが。
そう考えながら窓の方へ振り向いた。
すると、エアネストは腕組みし眉を僅かにひそめて、何やら考え込んでいるように見える。その様子は、素直に国王の回復を喜んでいるようには見えなかった。
ずくん、とイリスの胸が痛みを覚える。
——宰相が国王を殺そうとしている。
それが真実なのだろうか。
(まだわからないわ)
怪しいというだけで決めつけてはいけない。
「では、私はこれで」
「ご苦労だった」
イリスの挨拶に笑みで返す国王に、再度頭を下げて部屋の扉に手をかけた。
扉を押そうとするその背中に、低くよく響く声が掛けられる。
「魔術師殿、君の名前を教えてくれ」
イリスは足を止めて振り返った。
サファイアの瞳が、冴えた刃物のようにイリスに向けられている。
「イリス……と申します」
必死で平静を装いながら名を告げる。
こういう時、顔が半分隠れたこの髪型は便利だ。そんなことを一瞬考えるが、冷たい汗が背中を流れる。
「どうしたエアネスト、お前が他人に興味を持つとは珍しいな」
フリードリヒが驚いたように声を掛けた。半分からかっているように見えるのは、イリスが女性だからだろう。
「私も名前くらいは尋ねます」
エアネストが不快そうに眉をぴくりと動かして反論する。
「そうかな? あまり見たことがないぞ」
「陛下が知らないだけですよ」
「お前が相手にするのは政治関係者だけだろう。仕事以外の付き合いは避けているのかと思うくらいだぞ」
「やるべき事が多すぎて、暇がないのです」
「少しは遊べよ。宮廷の女達が俺に不満を言ってくるのだが」
「そんなくだらない事に割く時間はありません」
二人は親しげに言い合いを始めた。
「イリス殿、もう行ってよいですぞ」
ルイスがイリスの肩を軽く叩く。
フリードリヒはエアネストを信頼しているように見える。その信頼を彼は裏切っているのかもしれない。そう思うといたたまれなくて、イリスは早くこの部屋から出て行きたかった。
「では、失礼いたします」
イリスは頷いて扉を開ける。
エアネストはそれ以上は何も言わずに、イリスが部屋を出ていくのを見送った。
国王の部屋から自分の研究室へと戻ったイリスは、ソファーの上に身を投げ出してしばらく目をつむっていた。
彼があの場に同席していたのはまずかった。ライナーが言うように本当に彼が黒幕ならば、治療をする自分達は彼にとって邪魔者だ。
(治療を頼まれている事は知っていたはずだし、あれでどうこうされるとは思いたくないけど)
イリスに名を尋ねたのは、どういう意図があったのか。国王は自分の右腕である宰相のことは、全く疑ってはいないようだ。
「まずは今夜、ルイス侍従長に聞いてみるしかないわね」
イリスは侍従長が怪しいとは思えないのだが、いつも国王のそばについている彼なら何か知っているかもしれない。
「夢なら何か喋ってくれるかも」
エアネストに魅了魔法を掛けるとえらい事になってしまったが、ルイスになら上手く出来るかも。そんな事を考えながら、イリスは魔法陣の描かれた羊皮紙を机の引き出しにしまい込んだ。




