第2話 辺境伯令嬢の力
彼女はすばやく立ち上がり剣を抜いた。
身に纏う緊張と漲ってくる気迫をアイラは感じ取った。
女剣士が構えを取りながら視線をぐるりと回す。
「おい、どうした?」
顎髭の男の呑気な声が聞こえた。
「来るよ、魔獣よ」
「魔獣だって? なんで、ここには女神の加護が」
細身の男が、「冗談はよせ」と呆れながら後ろを振り向く。
アイラは男の視線の先を見た。
景色に見覚えがあった。――あれは、太陽の女神様の祠。
ここは鎮守の森の最奥、シトラス家が祭祀を務める聖地だ。
なんで? 聞いた話では、森には魔獣は出るけど聖地付近には出ないって。
考えたのも束の間、風が吹き、木々がざわめく。森の奥に遠吠えが鳴った。
危機を察知した馬が嘶き、逃げ出そうとして暴れる。
「まずいぞ、とっとと逃げねぇと」
とたんに顎髭の男の顔色が変わる。急いで身支度を始めた。
「うわぁ! ダメだ」
細身の男が叫びながら尻もちをついた。後ろの大きい男も慌てて止まる。
飛び出てきた一匹の魔獣が進路を遮っていた。
「こ、こいつは、ビッグファング。まずいな」
震える男の声と獰猛な唸り声をアイラは同時に聞いた。
――ダメだ。相手は獰猛な魔獣だ。もう、どうすることもできない。
アイラは脱力した。子供の自分にも分かる。屋敷にいる騎士団ならともかく、盾も鎧もない。数も男三人に女一人。彼らはあてにできない。
このまま死んじゃうなんて……呆然としながら力を抜いたアイラは、ただただ空を見上げた。
木々の合間から見える美しい星空。
私、どうやって死ぬのかな。痛いのは嫌だな。
終わりを想像した途端に全身が震えはじめた。
――嫌だ、死にたくない!
アイラはギュッと目を閉じた。じわじわと恐怖が湧いてくる。
怯えながら、これが最後の景色になるのかと考えたそのときだった。
指輪が、アイラに何かを伝えるかのように小刻みに振動した。
――え、なに? アイラは指輪に意識を向けた。
『今度は健康な体に生まれてこられたのに。私は、また、大人になる前に全てを失ってしまうの』
頭の中に聞こえてくる嘆き声。
――これは、なんなの?
『私は嫌だ。私はまだ死にたくない』
魂の奥底から聞こえてくる、誰かの切なる想い。
この少女の声、どこかで聞いたことがあるような……
私は、絶対にこの人を知っている。でもなんで分からないの?
アイラは顔をしかめた。
『諦めないで、アイラ』
――誰? ……あなたは? これ、なんなの?
「しっかりしなさい。諦めちゃダメよ!」
耳に届く鼓舞する声。アイラはハッとする。
女剣士が、縄をほどき、足枷を解いた。
これで身動きはできるようになった。でも、だからといって子供の私に何ができるというの。相手は足の速い魔獣、逃げたって追い付かれるわ。
「……お姉様、ありがとう」
強張る口で礼をいうと、女剣士が微笑んだ。
「お、おい、ダリア、そいつを使う。こっちによこせ」
顎髭の男がにじり寄る。
「あんたも男だろ、狼の一匹や二匹なんとかしな」
女剣士が男を睨みつけアイラを背に隠す。
「無理だ、あいつらは群れで来る」
アイラは辺りを見回した。
最初の一匹は、大きい男と細身の男が二人でなんとか抑えていた。
ダメね。あの男たち、魔獣に遊ばれているじゃないの。それに、ビッグファングが笑っている。……あれは賢い、きっと仲間を待っているんだわ。
「……お姉様、ビッグファングは、全部で五匹だよ」
アイラは、女剣士の背中に向かって呟いた。
その声に反応して、彼女の背中がピクリと動く。
振り向いてアイラの顔を見た女剣士の目が驚くようにまん丸になっていた。
「あなた、分かるの?」
「う、うん」
答えると、女剣士が、そう、と優しく言って眉を持ち上げた。
「ほんとだよ、嘘じゃない」
「おい、ダリア、時間がねぇ、さっさと――」
「うるさいわね、この子は渡さないわ、魔獣は私が抑える。あんたらは逃げな」
「そうかい、それならば遠慮なく――」
顎髭の男が嫌な感じの笑みを浮かべたときだった。
アイラは咄嗟の刺激に反応して振り向く。
見た先で、悲鳴を上げた大きい男が血しぶきを上げて倒れた。
一緒にいた細身の男も腰を抜かして動けなくなっていた。
あまりの恐怖に声も出ない。
石のように固まる体。
目が、口元から血を滴らせるビッグファングから離れない。
「見るな!」
女剣士が、アイラの目を塞ぎ、体を抱き寄せた。
逸らされた視線、残された聴覚が次の悲鳴を聞き取った。
「あなたは、女神様の祠に逃げなさい。この地の祭祀を務める一族のあなたなら加護を受けている。結界を通れるでしょ」
「で、でも、お姉様は」
「大丈夫、なんとかするわよ」
女剣士が剣を構え、アイラを背に庇いながら祠に近づく。
木々の間、黒い闇から一匹、もう一匹と魔獣が姿を現す。
「驚いたわ、まさか本当に数を言い当てるなんてね」
彼女は呆れるように苦笑した。
「こ、こうなりゃ、やるしかねえ」
いち早く動いた顎髭の男、その目的は、
たぶんアイラと女剣士を置き去りにして囮にすること。
男が槍を振り回しながら魔獣に向かって突進した。
しかし、逃げ道を作ろうとして一匹を退けたものの、すかさず横から飛び出した牙が男の首を捕まえる。魔獣の口に咥えられた男の体がだらりと揺れた。
「お、お姉様、逃げなきゃ!」
「私はいい、あなたは、早く祠に」
「……私、入れないの」
アイラは唇を噛みしめて下を向いた。
「あなた……そう、あなた、やはり魔力が」
優しい目が見つめてくる。
アイラは悔しい気持ちのまま頷いた。
そんなアイラの頭をそっと撫でながら彼女は言った。なんとかしてやると。
「賊になり下がった身で、とんだお人よしだな、私は」
女剣士は、再び剣を構えた。
祠の入り口を背に敵を睨みつける。
口からよだれを滴らせ、首を上下に揺らし、等間隔でにじり寄ってくる五匹の魔獣。
彼女が小さな声で呪文を唱え始めた。
――すごい、この人、魔法も使えるんだ。
徐々に女剣士の体から力強い気配が立ち上る。
最後に何かしらの言葉を叫ぶと、彼女の長い髪が炎のようにぶわりと逆立つ。
刹那、左手をかざす。飛び出した炎の玉が一匹目に向かった。
次に女剣士は、飛び込んできた魔獣を見定めると、その胴を目掛けて薙ぎ払うように剣を走らせた。
――強い。あっという間に二匹も倒してしまった。もしかしたら、お姉様は、騎士団長と同じくらい強いかもしれない。それでも……どこまでできるんだろう。
アイラは、逃げることも忘れて、戦況を見つめた。
――あいつら、お姉様の強さを見て首を傾げている。賢いわ、ちゃんと相手の力量を計っているのね。
少し考えるような仕草を見せたあと、三匹が陣形を立て直し距離を取る。
アイラは息を呑んだ。
女剣士は、一匹に剣先を向け、左手で別の一匹をけん制する。残る一匹の動きは視線で封じた。
――三対一ではまだ分が悪いわ。
魔獣の圧を受け、じりじりと後退する二人。
アイラは恨めしい気持ちで後ろの祠を見つめた。
ここに逃げ込めたならばどんなに良かっただろうか。
ウォォォン!
唸り声が上がった。ハッとして振り向くと、三匹の魔獣が跳ねながら距離を詰めてきた。
女剣士の頬に汗が流れる。
……いよいよダメか。この人も、私もここで食べられちゃうのね。
『諦めるな!』
指輪が震えた。――まただ。また声が。
「あなた、いったいなんなの!」
迫りくる敵を見る。
諦めるな、なんとかしろって言われても……
それに、お姉様がいくら強くても、こんなの絶対に無理だわ。
謎の声と迫りくる恐怖。アイラは混乱したままぎゅっと目を瞑る。
すると、頭の中にひときわ大きく声が響いた。
『まだだ、アイラ。――目を開けろ!』
アイラは苛立つ気持ちのままに指輪を見た。
「うるさいわね! 私にどうしろっていうのよ!」
光る赤い石は訴える。心の奥から気持ちが溢れてくる。
『生きろ、生きて!』
私は……
「分かったわよ、やってやるわよ!」
応えると指輪が強い光を放った。
祈るように胸の前で手を組み想像する。
次々と脳裏に浮かんでくる映像。
死を目前にアイラの超感覚が戦場を見る。
頭に浮かぶ映像を見てアイラは叫んだ。
「最初の一匹は上に高く飛んできます! ……次に一匹が横手から突っ込んでくる。残りの一匹は回り込んで前から追い打ちの態勢を取ります。気をつけて! お姉様」
アイラの声を聞いた彼女はすぐさま構えを変えた。
迎え撃つ女剣士が三方向からの攻撃をギリギリの距離で躱す。
良かった、信じてもらえた。
一進一退の攻防が始まった。
――す、すごい! アイラは感嘆の声を漏らす。
ちゃんと見えていたわけではない。
それでも、アイラは彼女の剣に見惚れた。
舞うように闘う姿を純粋に美しいと感じる。
怖い気持ちは忘れてしまっていた。
その後もアイラの指示に従って攻防は続く。
心臓がドキドキして苦しい。戦いの時間がとても長く感じる。
次、その次と数を減らしていった女剣士。
彼女はついに最後の一匹を追い詰める。それでも、彼女自身も無傷ではなかった。
だらりと下がった剣先から滴る血は魔獣のもの。
無数の傷から流れているのは女剣士の血。
はあはあ、と大きな息をしている。疲れているのだ。
それでも彼女は、剣の柄を両手で握り直して魔獣を睨みつけた。
――予感がする。きっとこれが最後の一太刀になる。
アイラは胸の前で手を組み、目を瞑り祈った。
――女神様、どうかお救いください。アイラは終わりを想像した。
だがそこで頭の中に描いた未来の映像がパチンと弾けた。
驚いてアイラは目を開いた。
そこに見えたのは、
飛びかかる魔獣と地面に溜まる血に足を取られて体勢を崩す女剣士の姿だった。
ダメだ! 怖いことが起きる。
このままでは、お姉様が死んでしまう。
「ダメ――!!」
アイラは叫んだ。
頭の中を真っ白にしたまま両手を翳す。
お姉様に迫る魔獣の牙を止めないと、なんとか止めないと。
止まれ! お願い止まってぇ!!
それは、ほんの一瞬の出来事だった。
空中で魔獣の動きが止まった。
――やった、できたわ!
それは魔力を持たないアイラの力。
普段はこれほどのことはできない。
せいぜいペンやスプーンを動かせるくらいだった。
何にも触れずにものを動かす力。家族にも秘密にしている力が、なんとか役に立った。
――でも、まだだ。まだお姉様は起き上がれていない。
どうする? 何か、あいつをやっつけるために何か。
アイラは夢中で両腕を振り下ろした。
直後、指輪が赤い閃光を放ち砕け散った。
足元に転がっていた数個の石ころが宙に浮く。
――えいっ!
すぐさま発射された石の弾丸が敵を目指す。
それは非力な子どものやけくその行動と変わらない。
違ったのは、当たれ、弾き飛ばせという強い思い。
放たれた石に打ち抜かれ絶命した魔獣が地にどさりと落ちた。
剣を杖にして膝をつく女剣士。
良かった、これで終わりだ。
アイラは彼女の無事な姿を見て安心した。
「あなた、その力は……」
駆けつけて、彼女が不思議そうに尋ねた。
「へへ、わかんない」
ホッとしたとたんに体から力が抜けた。
アイラは地面にへたり込んだ。
返事のあと、忘れていた恐怖心が胸の奥から湧き出る。
目の当たりにしているのは、血の海に転がる死体。
――獣臭い、それに生臭い。……ダメだ、気持ち悪い。
嫌な臭いに酔いアイラは気を失った。




