盗人タヌキ(6)
俺は咄嗟に駆け出していた。目の前でヒサメが刃を掴んで、自分の喉に突き立てようとしているのを見ながら、止めようと手を伸ばす。視界には突進してきた俺を刺そうと小刀を構える男が映っていたはずだが、ヒサメ以外は目に入らなかった。
腹と手に痛みが走る。ヒサメの力が緩んだ隙に、刀を奪い取る。腹に刺さった異物が引き抜かれる感覚がする。ああ、駄目だ。せめてヒサメにこの護符を呑ませないと。術が解けたらヒサメはこんな男に負けねえ。俺はヒサメに手を伸ばし、護符を口に入れようと試みる。ヒサメは俺の手を払い除け、刀を取り返そうとしてくる。
「死ねや、小僧!」
男は小刀を振り被った。俺の刀に手を伸ばしているヒサメが男に刺されてしまわないように後ろに庇う。男の肩に蝶が止まるのが見えた。その蝶が大きな毛玉に姿を変える。毛玉が笛に噛みつくと、鋭い音色が響き渡った。
「この男をやっつけるポン!」
毛玉から声がした。俺は迫りくる刃を前に目を閉じたが、いつまで経っても痛みは訪れない。恐る恐る目を開くと、目の前には男の生首を持った夜叉と、狸寝入りしているタヌキがいた。
「ヒサメ?」
俺は腹の傷を押さえながら呟いた。ヒサメはまだ男の死体を前に立ち尽くしている。タヌキがガバッと身を起こし、ヒサメを避けるように俺の方にやってきた。
「酷い怪我だポン。すぐ手当てするポン。」
タヌキは俺の腹部に葉っぱを当てようとしてきた。俺はそれを止める。
「ありがとうございます。まずはヒサメを正気に戻してあげてくれませんか?」
「え、ああ…。お安い御用だポン。って、どうすればいいポン?」
男が死んでしまった今、すぐには術の解き方が分からない。手っ取り早い方法は…。
「笛を壊してください。」
「壊していいポン?」
俺が頷くと、タヌキは飛び上がり、空中で岩に変化して笛を叩き割った。笛は粉々に砕け散った。
「スメラギ殿?」
俺はその声に自然と顔を綻ばせてしまった。ヒサメは愕然とした表情で、俺と自分の血塗れの手を交互に眺めている。
「何故、私を助けた?あのタヌキが笛を奪わなければ、貴殿は殺されていたぞ。」
「見殺しになんて、できるはずがねえだろ…。」
俺は膝を付いた。身体から力が抜けていくのを感じる。血を流しすぎた。
「スメラギの護符を呑んでいいか?一枚しかないけど、これ以上スメラギの身体をボロボロにしたくないんだ。」
「訊かなくていいから、すぐ呑め。」
俺はスメラギの護符を呑み込んだ。怪我をした部分がじんわりと温かくなっていく。
「ごめんね、自分だけ治療しちゃって。ヒサメの怪我はスメラギに治してもらってくれ。」
「気にするな。こんなもの、傷のうちにも入らぬ。」
「手を出して。」
俺は巾着から包帯を出して、ヒサメの左腕に巻いた。
「分からぬ。貴殿と私は、偶に会っては共に任務に当たるだけの関係ではないのか?何故、私のためにそこまでする?」
「…。」
不安そうに俺の反応を見ているヒサメは、本当に不思議そうだ。俺は所詮、彼女にとって時々スメラギと入れ替わる謎の人物というだけなのだろう。仕方ない。俺にとって彼女との出会いは俺の人生の岐路だったが、彼女にとっては何でもない出来事に違いない。
いっそのこと、俺のヒサメに対する想いの全てを打ち明けてしまおうか。命懸けで助けたいくらい大切な存在なのだと言ってしまえたら、どんなに…。
「すまぬ。困らせたか?」
「…ヒサメ。」
俺はヒサメの手を取った。温かい。
「君が生きていてくれて良かったよ。」
「む?」
混乱しているヒサメもかわいい。俺は微笑んだ。
「何やら、はぐらかされたような気もするが…。」
「いーじゃん。」
俺は帰り支度を整えた。タヌキがヒサメを避けながらやってきた。
「さっきはありがとうございました。お元気で。」
「お兄さんも何か苦労してるみたいポンね。コノハとかいう豆狸はもういいポン?」
「いいんだ。今思えば、ミライは一言もコノハがこの町にいるとは言ってなかった。多分、この経験をさせることが目的だったんだ。」
やはり俺はミライが好きになれない。スメラギの想い人でなければ絶対に関わりたくない。
「よく分からないけど、もういいなら良かったポン。」
「貴方ももう人を騙さないでくださいね。懲りたでしょう?」
「もちろんだポン。こりごりだポン。」
俺はヒサメと宮中に戻った。負傷が酷いので、秘密裏に。着替えを済ませると、女官が訪ねてきた。コノハが捕まり、掛け軸も無事に取り戻せたそうだ。苛立つ気力もなく、俺は女官の苦労をねぎらった。
俺は今日の出来事とスメラギへの謝罪を日記に綴り、床に就いた。
【コウとスメラギの日記】
神皇国にある日記より一部抜粋
5月27日 コウ
ごめん、重傷を負わせちまった。治すために護符も使った。ヒサメにも傷を負わせたから、できれば治してあげてほしい。怪我をさせて本当に申し訳ない。
5月28日 スメラギ
コウは謝りすぎ!もちろんヒサメさんの怪我は治しておいたよ。入れ替わっている時は、この身体はコウのものなんだから、怪我をしようがどうしようが、私に謝る必要は全くないからね!むしろ私への変な気遣いでコウがコウらしく動けないようでは困るよ。ヒサメさんを守ってくれてありがとう。




