盗人タヌキ(5)
「うぅ…。」
「大丈夫か、ヒサメ?」
「来るな!」
俺はヒサメに差し伸べかけた手を途中で止めた。ヒサメの目は焦点が合っていない。破壊衝動に呑まれて正気を失った時のような様子だ。
「これはどういう…。」
男は笛を持ってニタニタ笑っている。俺は男を睨みつけた。
「妖怪のみを操る笛ですか?」
「お、知っていたのか。」
「知りませんが、状況と貴方の言動から予想がつきます。」
この男は妖術で妖怪を操って金品を騙し取っていたのだろう。わざわざ詐欺のプロである獣妖怪ばかりを相手にしたのも、妖怪のみに効く妖術だからだと考えれば辻褄が合う。
「頭良いなあ。流石は人間様、畜生どもとは頭の出来が違う。」
「この人間至上主義者め。」
この世界は人間、妖怪、付喪神、精霊などが共存している。宮中にも多くの妖怪や付喪神が暮らしている。しかし、中には種族差別主義者も存在する。
「人間は操れねえから、残念ながら殺すしかねえなあ。口封じしな、妖怪。」
男が笛を吹くと、ヒサメが刀を抜いた。マズい。ヒサメが敵に回ったら、俺なんて百人いても全員死ぬ。何なら、癒しの力がないスメラギでは、この男にすら勝てない気がする。ツユハライは今日既に起こしてしまったから、無理に起こすと負担が大きいだろう。
「よくもヒサメを!」
俺は男に向かって行ったが、ヒサメは瞬時に男を庇いに行った。俺が止まると、ヒサメは深追いしなかった。
「危ねえなぁ。操られている間は、最優先で主を守ってくれるのさ。殴りたかったら、コレを壊してからにしな、小僧。」
「テメエ…。」
ヒサメは再び襲い掛かってきたが、その太刀筋はかなり鈍っている。それでも、俺には避けられず、負傷が増えていく。腰に提げた巾着を刀が掠めたことで、俺はハッとした。
「待って、俺は今、変化したタヌキを連れているんだ!その子だけでも見逃してくれないか。その笛で操れば、貴方の害とはならないはずだ。」
俺は男に訴えた。
「ハァ?そんなことをして、テメーに何の益がある?」
「目の前に救える命があるなら、助けようとするのが人情ってものでしょう?貴方だって、妖怪からお金を騙し取っても、命までは取らなかったじゃないですか。お願いします。」
もう巾着を庇いつつ避ける余力がない。そんな俺の様子を見ていた男は、笛を鳴らした。ヒサメの身体が強張る。
「攻撃を止めろ。こいつが妖怪を逃がす以外の動きをしたら、すぐに斬り殺せ。」
ヒサメが止まったことで、俺も動きを止めた。俺は肩で息をしている。
「さっさと済ませろ。」
俺は巾着から水筒と護符を取り出した。護符は隠して、水筒で口元を隠しつつ、震える手で開ける。中から小さなタヌキが出てきて、元の大きさに戻った。
「逃げるポン。変化させるポン。」
「いや、変化で自分の耳を塞ぐんだ。できれば笛を奪ってほしい。」
タヌキは涙目で微かに首を横に振る。一般人に頼むことではないな。失敗したら命がないのに。
「ごめん、無理を言った。忘れて。」
笛の音が響いた。変化は間に合っただろうか。タヌキは動こうとしない。
「どっかに失せな、畜生。」
タヌキはてくてくと歩き出した。まあ、操られているのだとしても、命は助かるだろう。後は俺が生き延びるだけだ。スメラギを死なせるわけにはいかねえ。取り敢えず、護符を呑めば一時間は負傷しても傷が治る。その間に男から笛を奪うか破壊することでヒサメも元に戻るはずだ。
男は笛を吹いた。
「今度こそあの人間に止めを刺せ。」
ヒサメは刀を抜き放った。俺に斬りかかってくるが、どうにか躱したり受け流したりすることができている。ヒサメが本気を出せば、俺は瞬く間に挽き肉になるはずだ。幸いにもヒサメはまだ術に抗っているようで、距離さえ取れば深手には至らないだろう。
「ヒサメ、しっかりしろ!正気に戻れ!」
ヒサメの刀は止まらない。とは言え、普段とは比べ物にならないくらい遅いのだが。
「無駄だよ。諦めて潔く死ね。」
男はケラケラ笑っている。ヒサメの本当の腕前を知らないから、術がかかり切っていないことに気付かないのだろう。
俺の体力はもう限界に近い。護符を呑むなら早い方がいい。上手く使えば死んだふりをして笛を奪えるかもしれない。ただ、失敗すれば全てが終わりだ。護符は一枚しかない。迷う俺の前で、ヒサメは刀を振り被った。避け切れるか?
「ヒサメ!」
ヒサメの攻撃は俺の左肩を掠めた。そこそこ血が出ているが、俺はそれどころではなかった。ヒサメの表情は歪み、光を失った赤い目は大きく見開かれている。
「逃げ…ろ…。」
ヒサメは絞り出すような声で言った。刀を右手だけで持ち、自分の左腕を斬りつける。男は舌打ちすると、再度笛を鳴らした。ヒサメは頭を押さえて呻く。
「めんどくせー。もういいわ。自刃しな、化物。」




