18-1 LUCIFERO(天使と悪魔)――旧参謀本部跡
――人生の旅路半ばに
――正しき道を失ひ
――わたしはくらき林の内にゐるのを見た
初めて読んだのはいつだったか忘れてしまった、ダンテの『神曲』の触り。覚えているのは地獄の門を潜る問答と、地獄最下層のコキュートスの件くらいだ。読書に挫折するしないに関わらず、一度は触れる冒頭の序文だ。
今、私がいるのは暗い林の中だろうか?
正しき道はいつも朧気で頼りない。
帝国の「残影」は正統性を主張して地に焼け落ちた。連合国の横暴にも似た「光」は有無を言わせず人の権利を破りながらも地に満ちる。脳裏に現実が目まぐるしく周回しながら、昭和初期に刊行されたダンテ『神曲』の研究書をソファーに寝転がりながら読んでいる。
――柄にもないこと。
自分でも分かっている。
だけどこの1年、余りにも色々なことが起こりすぎた。
怪異の影に怯え、闇市の片隅に息を殺していた頃が遠い昔の出来事のようだ。
妖怪、堕天使、大天使――。もっと身近で卑俗な怪異の討伐など山のようにある。ウリエルや「ラセツ」や「オリガ」、加藤大尉に至るまで、私を取り込もうと画策している者達に振り回されてきた。
いや、『神聖同盟』も――、か。
殺意渦巻く英国本部の意向がどうあれ。ロバート隊長以下仲間達は私を必死に庇ってくれるが、ここに来て新たな怪異が私を深淵へと誘っている。
「……大概にしてくれ、まったく」
神曲では、地獄や煉獄を旅するダンテを師ウェルギリウスが道を諭し伝える。その旅をさせる張本人は天使ベアトリーチェ。研究書に曰く、若くして早世してしまったダンテの思い人を作品に登場させたらしい。
正しき道を示してくれる師と永遠の思い人。
私を導いてくれるのは――。
即座に頭を擡げてくるのは、脳裏に焼け付いた綺麗事では済まない現実。深淵が覗かせた虚実判然としない仲間達の過去。ぐちゃぐちゃになった頭を整理したくて、仰向けのまま神曲研究書で顔に蓋をして一眠り、とした――その時。
コンコンコンコン。
玄関のドアを大きく4回。
甲高い音は居間まで聞こえた。本をずらして壁の時計を見遣ると、針は9時を疾うに廻っている。こんな夜分に態々訪れる人間などいない。
いるとすれば――。
『ウラベ、ちょっといいか』
思わぬ訪問者の声。沈潜しつつも緊張感のある声色に、眉が自然と動いた。ソファーから飛び起き、急ぎ足で玄関に向かった。
『……スティグラー博士、ですか?』
『そうだ』
バタバタと慌て気味に玄関の扉を開けると、そこには玄関灯に照らされた白髪の知的無頼漢、スティグラー博士が相も変わらぬ真一文字の口のまま、白い色を浮かべながら独り静かに突っ立っていた。右手には何やら大きなバッグ、いや、籠、金属製の物々しい半円状の容器にも似た風体である。
『どうしたんですか、夜分に』
日が長くなったとはいえ5月の末である。外は肌に纏わり付くような湿気がひんやりと冷気を帯びている。
『急で悪いが、ちょっと付き合ってくれないか』
博士の後ろを見越すと、一台のタクシーがライトを付けたまま暖機運転している。
『……今からですか?』
『あぁ。着替えてきてくれると有り難い』
――武器の携行は勧められない。
ということは任務ではないだろう。博士の様子も相変わらずだ。でもだからこそ問わねばなるまい。
『何処へ、何しに、ですか?』
『ロバート達には内密にしてほしい案件だ』
その一言で俄に悟る。
あぁ、サリエル絡みか。
『……分かりました。ちょっと着替えてきますので少しだけ待っていてください』
頷いた博士を見て急ぎ寝室へ戻った。白いシャツから緑色のHBT作業服に着替える。夏用の米軍用作業着だが、これにも霊的防護として霊結晶が縫い込まれている。どんなに邪眼を手に入れようと、夜の無防備は何もなかった頃の脅威度と変わらない。
ここで軍属として働き始めてから一度も空間の皺みや色付いた怪異を……。
あ――。
シャツに着替え終えた時。
電流が脳幹を流れるように脳髄で過去が叫んだ。
上海から復員する辺りから私を傷つけ、引き込もうとしていた色や皺みは――あの『深淵』のそれだったのではないか?
映画館では全然思いもしなかったが、サリエルの言う勧誘が続いた今なら分かる。
あの声は、深淵は昔も今も私を――。
『ウラベ、準備は良いか?』
慄然と血の気が引き、意識が途切れていた所に博士の念話が響いた。
『だ、大丈夫です。行きましょう』
玄関を潜り鍵を掛けてタクシーを見遣る。グラス越しでも分かる。良くあるAA型のタクシーだ。戦前からある帝都の足である。
街灯の輝きが流線型のボディをなめている。
だが、――不思議だ。運転手の色が見えない。
人影はある。誰かが乗っているのは見える。運転手らしき影がありエンジンも動いているのに……そんなことがあるだろうか?
疑念を視線に乗せてスティグラー博士を見ると、博士の目配せでタクシーの後部座席の両扉が音もなく自然に開いた。
『乗ってくれ。行き先は乗ってから説明する』
博士を疑う訳じゃないが、事前に説明がないのは些かいただけない。
けれどこの様子では多くを語るまい。半ば観念し、夜の暗闇に輝く人工灯に吸い寄せられる蛾のように、ふらりと後部座席に身体を滑り込ませた。
柔らかい座席に身を沈めるとドアがバタンと勝手に閉まった。寡聞にして知らないが、自動でドアが開閉する装置を付けた最新車種だろうか――、と眉を潜ませたその時。
『久しいのぅ、ウラベ』
妖艶な女の声が脳内に響き渡る。
ハッと前を見ると、黒いスーツに制帽を被った運転手が身体を捻りながらこちらを覗いていた。
その顔は――見覚えのある枯骨の如き髑髏だった。




