17-5 Theater(幻影)――新宿
数瞬の沈黙の後、スクリーンは静かに暗闇へフェードアウトしていく。
「――愚かなる者よ」
声は合一し太く重くなる。それでいて嘲笑うような高見からの声に聞こえてしまうのは、本当に耳が腐る。
「深淵をまだ見ぬ浅薄な男よ。禍々しき託宣すら聞こえぬ哀れな者よ。青白い月の向こうでせせら笑う暗黒に、その腐れ果てた被造物の中からか細き真理を見よ」
なにを――。
「『一体何を言っている! 私の邪眼をどうするつもりだ!?』」
「自惚れるな人間よ。その程度の異能など神々の前には無力よ。大いなる神々は幼年期の児戯など歯牙にもかけぬものだ」
……一々高慢に、居丈高に。
ウリエルと良いレフチェンコといい、何故こうも傲慢になれるのだろうか。大天使だろうと人間だろうと、強力な力を手にした者は須く高慢ちきになる定めなのか。
「『――大天使か? サリエル……じゃないな』」
誰何に答えはない。
俄にスクリーンの暗闇は、僅かに瞬く星々の煌めきを映した出す。田舎で見上げた天の川や、煌々たる月の輝きすら一切ない――どこまでも深い暗黒。星の輝きは余りに頼りなく、何も導いてはくれない。
「その眼を以てして、渺茫たる虚空に佇む恐るべき者を見るが良い」
映像が闇の中に揺らぎ、腹の底から脳髄まで響き渡る重低音がシアターに響き渡る。スクリーンは闇を映す――だけではない。
見える。
ただの黒じゃない。
闇の中に息づく、鱗や腫瘍のようなうねり。
皺みは忌まわしき形相に――。
「……う」
やがて、知る。
画面いっぱいの細やかな星々が死に絶え、揺らめく穹窿の皺みは――化け物。異形、そんな平易な言葉で言い表せるものじゃない。映像は波打ち、まざまざと玄妙なそれを浮かび上がらせる。スクリーンから飛び出してきそうな程に生々しい。
嗚呼――、身の毛がよだつ!
2次元から這い出る禍々しい気配。窮極の深淵から顔を覗かせる峻厳な何か。目や鼻などない。あっても人のそれではない。胃が引き絞られ、汗が噴き出る。これは――人間の那辺の向こう側にある純粋な恐怖。
「人理の外にいる存在を欲している」
両腕で胸元を押さえながら嘔吐く。膝を突き椅子にもたれ掛かる。映像を直視出来ない。
「『――欲する、だと?』」
「其方が欲するものだ」
声が感情を滲ませる。
「裏切り裏切られ利用し利用され――人の世に希望はあったか?」
「加藤の甘言を本当に全て斬り捨てられましたか?」
「人間を守るという気高き理想ごと其方を殺そうとする者も多い」
「過去への復讐を胸に仕舞い、苦しい現実を見続けたとしても何が残りますか?」
「原子の火、大量虐殺、他者への隷従。人の理は人を殺す」
「「――なれば」」
声が重なり響き渡る。
「境界に生きる者よ。闇を見よ。天穹から降り注ぐ慈悲の光ではなく、この世を取り成す深淵の闇――そこに其方が見たいものがある」
「『私が……見たい、もの……?』」
それは一体何か。
焼け落ちた帝都に燻る猜疑と絶望の風。明るいジャズソングが響き渡る勝者の表通り。残飯とゴミに縋る敗者の裏通り。そのクロスロードに私は怪異の眼と共にある。
帝国の遺産を巡る争い。日米ソの霊会組織同士の醜い争い。秘密を抱えた頼もしい仲間達。その只中に聳ちながら、人に見えぬ怪異を眼で観て殺す。怪異と人身の端境に居る私が本当に見たい景色は――?
「暗澹たる深淵を見よ。思念は外宇宙の理にも繋がり、怪異が何故人間という懶惰でちっぽけな存在を惑わし傷つけるか。其方の求める答えは深淵にある。さぁ、勇気があらば覗いてみせよ。既に瞥見は済ませてあろう――さぁ」
まるでシアターに浮かび上がる異形の恐怖が、実体を伴いながら手を差し伸べているように、緩速度撮影じみた動きで隆起し始める。
スクリーンが盛り上がるはずなんてない。だが、平面から手とも眼とも口とも付かぬ、鱗にも岩肌にも似た突起物か触手がゆっくりと私に向かってくる。
闇への誘い。
深淵を覗き込む。
その先に、私の求めるものが――。
「『――怪物と戦う者は己が怪物にならぬよう気をつけよ。あなたが深淵を長く見つめるなら、深淵もまた、あなたを見つめるだろう――』」
突然――。
飄々とした声が響き渡る。
呼応するように爆発的な輝きを伴いながら、スクリーンが純白に染まる。煌びやかな反射光がシアター全体を明るく照らし出し、壁や座席の陰影は深く刻まれているが、そこに先程までの深淵の闇は感じられない。スクリーンから這い出ようとしていた異形も、残り香一つ残さず消え去っている。
「『……ニーチェとかいう男の「善悪の彼岸」だったかな? 本当に言い得て妙だねぇ。君もゆめゆめ忘れぬように心に刻みつけたまえ』」
耳と脳髄に響き渡る声。
舞台袖からカツカツと足音を立て、ポケットに両手を突っ込んだ男が何事もなかったかのように整然と現れる。金髪碧眼、黒いスーツに真っ赤なネクタイ。左だけ撫で上げた得意な髪型。涼やかに落ち着いた「邪眼」が、流し目ながらに私を射貫く。
「『サリエル――!?』」
「『久しぶりだねぇ、ウラベ。色んな奴らに大人気だな』」
真白きスクリーンを背景に目映い映写機のライトに照らされた彼は、まさしくも銀幕男優である。笑みを零す口元から発せられる余裕の科白は、本当に演者にふさわしい。……言われた側は辟易するばかりだが。
「『これは一体――?』」
「『はは、言ったろう? 君は好かれるんだよ。人間からも怪異からも』」
全く嬉しくない。
「『やはり、これは怪異の……』」
「『勧誘だよ。――まったく、手の込んだことをするもんだ。こんな馬鹿馬鹿しい映像を見せられて、一体何をさせたいのやら』」
まざまざと瞼に焼き付く青く輝く地球。
真っ暗闇の宇宙に浮かぶ、煌びやかな宝石。
闘争の歴史、ちっぽけな人間達が生み出した規律。
仲間達の過去と――
「『……深淵』」
ボソリと呟いた私の一言を拾い上げるように、サリエルがカラカラと笑った。
「『ハハハハハ、気をつけたまえよ君ィ。ミイラ取りがミイラになったら困っちゃうよ。――さぁ、茶番は終わりだ。そろそろ君がいるべき、君が見るべき現実に戻る時間じゃないのかね?』」
外連味たっぷりに右指をパチンと鳴らす。
スイッチを切り替えるように、スクリーンの輝きが太陽光にも似て眩しく、目も眩むほどに全てを包み込む。シアター全てが白の輝きに埋め尽くされ――。
「『ま、待ってくれ――! 話はまだ……』」
「『近々、また会えるさ』」
その一言と共に、再びこの世は暗闇に包まれた。
あらゆる造形物が見えなくなり、眼前全て黒滔々たる闇が蹲る。
ここは深淵の闇か? それとも人間の心の闇か?
肌に感じる恐怖はない。
――ならば、そういうことなのだろう。
「『……ねぇ、起きてよウラベ』」




