16-10 inspector(太歳)――狭山湖
「『貴様ら全員、この眼で悉く呪い殺してくれるッ!』」
俄に赤黒い瞳が強烈に輝き出す。
それは全てを憎み、破却し、命を終わらせる太歳の瞳。
その眼に見つめられてはならない。仲間を傷つけさせはしない。自然と身体が動き、髭切が青眼の構えから一撃の突きを繰り出そうとした――、その時。
「『そうは問屋が卸さんぜッ!』」
辺り一帯に響き渡ったのは姿の見えないマイクの声。同時に気の抜けた発砲音が至近距離で耳を擽った。銃声は擲弾銃のそれだ。
しかし――、弱い。
銀粉弾頭の発射らしくない。弱装弾だろうか?
間抜けな銃声と共に眼前の加藤の顔面で何かが弾けた。銀粉じゃない。聖水でもない。これは――
「『スティッキーボムの残りカス……もといお手製の粘着質弾頭だぜ! ちょっとやそっとじゃ取れねぇぞ、そのトリモチはよ!』」
戦時中の英国にて。
対戦車用武器として開発され、郷土防衛隊に配備されたという粘着手榴弾。「投げる時に服について取れなくなる欠陥武器」とマイクは以前揶揄っていたが……。
見ると、加藤の顔面は無惨な物だった。
上半分は茶色い粘性液体でぐちゃぐちゃに覆われ、拭おうとした左手にもへばり付いている。こうなると油や洗剤をしっかり使わないと絶対に落ちない。
――子どもの時分に死ぬほど経験済みだ。
「『こ、……こんな、馬鹿な!』」
トリモチの粘着が眼や顔を覆う。
日常感覚からするならばこれほど残酷なこともない。
加藤は必死に左手で顔を拭うが、取り切れないどころか指すら顔にくっついてしまう。藻掻くように左手を剥がしたが、トリモチは全く落ちていない。
「『眼が危険なら、眼を潰しちまえばいいんだぜ、おっさん』」
マイクが髭を揺らしながら高らかに勝ち誇る。
邪眼を封じる最も効率的かつ安価な方法。
きっとそれは私にも有効なのだろう。
「『貴様ら……! 貴様らぁッ!』」
怒り狂い、片膝立ちから勢いよく黒刀を振り回しながら正面に斬りかかってくるが――所詮盲目である。左に避ければ切っ先は空を切る。右に避けても空を切る。
虚しく呪詛を吐き、よたよた蹌踉めきながら刀を振るっている。
――哀れですらある。
だが、かける慈悲はない。
『残念ね元大尉。連合軍によって帝国も軍も殯はもう済んだわ。あとは土に還るだけ。その眼と共に地の底へ戻ると良いわ』
『お、おのれぇッ!』
ヒノエの挑発に剣先は虚しく揺らぎ、勢い任せに乱れるばかり。息を切らせて空を切り続け、ついにはがくりと膝を突き四つん這いに項垂れる。
――もう立場が覆ることはない。
背中で息をする黒い鎧の男。
神聖化弾頭ですら貫けぬ強固な怪異の装甲に身を包み、殺しきれず死にきれず。憎悪に身を捩る大蛇はその殺気を全く衰えさせていない。しかし、終わらせなければならない。
『大尉』
真正面に立ち髭切を天に掲げる。
『今私が生きているのが運命か呪いか、因子かは分かりません。ですが、私はこれからも生きます。過去の憎しみも今の不合理も――全て背負って』
弾丸で砕けぬのならば、この眼で。
「『ひ、ひひ……。ひひひひ!』」
加藤が引き攣るように笑い出す。
「『何も知らぬ小僧が……。私が手を下さずとも、いずれあの御方が……』」
突然、跳ね上がるように上半身を起こした大尉の両手は力無く垂れ、首も斜めに持ち上げるのが精一杯の様子だ。歪んだ唇は私をせせら嗤う。
「見たい景色から目を背け、恨まれ、利用され、開き直ったその先で……、ひひ、滑稽な貴様を地獄で待っているぞ……」
茶色いトリモチに塗れた顔で気色悪い笑みを浮かべる。
――今更何も言うまい。
憐れみも憎しみも天理の彼方に置き去って、大尉の胸部装甲を邪眼で穿つ。
じりじりと黒色結晶が歪みだし、僅か数秒で硝子のように砕け散る。夕映えに照らされながらも輝くこともなく、堰堤の影に染みこむように結晶達は塵と消える。
『終わりです』
紫電一閃――。
髭切は吸い込まれるように流れるように、切っ先は大尉の躯を斜めに斬り抜ける。鋭い切れ味ながらも肉や骨を断つ感覚が両手を流れる。眼前で吹き上がるは黒く禍々しい血、――いや、瘴気だ。真っ黒な瘴気が夕空に舞い上がり風に消える。
大尉はゆっくりと後ろに崩れ行き、力無く仰向けに倒れ込んだ。相変わらずの気色悪い笑みを浮かべながら――、噴き出した黒い瘴気に身体を覆われる。
『……太歳の気が消えていくわ』
見た目には全く分からない。
私の眼を以てしても差異を感じられない。
彼女には、一体何が見えているのだろう?
地をのた打つマガツ神の片鱗か。それとも帝国の残滓の形を借りた怨念か。
そうだ――、斬ったのは人間ではない。私が斬ったのは過去、そして幻影だ。人の貌をした怪異、怪異の形をした幻影。どちらであれ全ては闇に消え地に還るべし。
『敵怪異の活動停止を確認しました……』
キャサリンの落ち着いた声色が、戦いの終わりを静かに告げていた。
『これは……』
風に消えゆく加藤の躯にヒノエが小さく驚きの声を上げたのを、私は聞き逃さなかった。
『どうしたんですか?』
『あ、……いえ、何でもないわ。ただ――』
含みのある一言を聞こうとした時、隊長達が近づき労ってくれた。
『――ご苦労だったウラベ』
『やったな!』
『こんなこともあろうかと、廃棄物を取っといて正解だったぜ』
『マイクのケチが役に立ちましたね』
『おいおい、ケチって言うなよ。ある物は何でも利用するのがコマンド部隊の戦い方ってもんだぜ』
『へッ――、今回はそういうことにしといてやるよ』
――いつもの仲間達。
――今を生きる、信頼すべき輩。
風に消えた大尉を見送るように夕暮れ空を見上げる。狭山湖のほとりは何もなかったかのように静かに静かに、水面に夕映えを湛えている。
『無事討伐できたようだな』
ふと、図太い声が脳裏に響く。堰堤の向こうから――、ウィリアム達が並んでこちらに向かって歩いて来るのが見えた。
しかし、その顔は怒りと苦悶に満ちていた……。




