16-3 inspector(太歳)――立川
――ない。
――遺体がない。
足下も覚束ない闇の中、墓穴に近づきながら気づいた異常。確かに穴の横に2体並べたはずだ。だが、ぼんやりと闇に浮き上がる人の形は――どう見ても1つである。
水筒を取りに行った、たかだか数分間のはずだ。
野犬が持って行くとも思えない。食い散らかされた気配もない。ふと振り返ると、大尉はもう埋めてあるのだろうと思ったのか、遺体が1つになっていることに何も言ってこない。
……今更どうこうすることも出来ない。
自然と溜め息が漏れて胃が縮んだ。どうせまた殴られる。観念しながらも確認せねば。記憶違いで遺体が穴に落ちた可能性もある。
だから――。
『大尉と二人で、墓穴を覗き込んだんだ』
そこで――見たのだ。
僅か1平米程度の粗雑な穴。
こちらを見上げる――眼を。
嗚呼。
駄目だ。
全身が波打つように総毛立つ。
頭が痛くなる。
吐き気がこみ上げる。
ドロドロと暗闇を蠢く物体。
夜陰に暈けていても分かる。
穴の底が細波のようにうねり、壁面の赤土はボロボロと崩れていく。地面には幾つもの巨大な瞼が鼓動するように脈打っている。
そして――眼が開かれた。
『……邪眼、ですね』
デービッドが意気消沈したように声を落とす。
『そうだ。この眼だ。――白目は漆黒に染まり、瞳は鮮血のように赤く、同時に黒い。見たこともない輝きを放っていて――大小いくつもの邪眼が、一斉に私達を見つめてきたんだよ』
『…………』
隊長以下、皆が息を呑んでいる。
私は吐き気を飲み込むので精一杯。あんなもの思い出したくもない。それでも――あの影が、今に迫っているのだ。
『滝夜叉姫の言うとおりなら、アレが「太歳」なんだろう。だけど――あの時は知る訳もない。だから二人して声を失い、腰を抜かし、少ししてから叫んだんだ』
何を叫んだかは全く覚えていない。
それでも感覚は焼き付くように思い出せる。
津波のような悪寒。頭の天辺からつま先までビリビリと電流が走り――目の前が眩むほどに寒くなった。指が縮み上がって尖った礫を掴み痛みが走る。脚に力が入らず無様に転びながら、息を切らして本部に向かって走るばかり。
『大尉がどうなったかなんて、その時は全く気にも掛ける余裕なんて無かった。その直後だった――』
――闇夜、闇夜である。
森々と静寂を湛える闇。
突然閃光と雷鳴に似た轟音が、闇の緞帳を切り裂いた。
キュルキュルという風切り音。パッ、パッと白やオレンジの閃光が瞬く。逃げる先の中隊本部を包み込むように――炎が闇を照らし、ゴオンゴオンと炸裂音が耳を聾した。
『国民党軍の夜間砲撃が始まった。――きっと、国民党兵士による砲撃地点指示があったんだろう……』
予兆もない晴天の霹靂。
壕向こうの中隊本部が、間断なく迫撃砲の攻撃を受けていた。迫撃砲だけじゃない、明らかに山砲の砲撃音も轟わたる。
文字通り砲弾が「雨あられ」に降り注ぐ様は、人の言うところの「地獄の釜」が開いたようだった。昼のように周囲を照らす弾薬集積庫の爆発。燃え上がる木造建屋。次々と弾け飛んでいく旧寺院の石壁……。
茫然と立ち尽くす私の近くにも着弾し、閃光と炸裂音、そして土の塊が合奏となって私の皮膚を、意識を乱暴に殴りつけてきた。砲撃の爆音による耳鳴り、衝撃による眩暈で脳味噌が揺れる中、ふと右隣を見ると――加藤大尉が倒れていた。
『砲弾片が直撃したのか……、奴は既に事切れていました』
断続的に闇を照らす爆発炎。
闇と光が明滅しながら大尉の死を証明する。背中がぱっくりと割れ、上半身は黒々と血に染まり、血肉や骨が剥き出しに。
――無惨。
どんなに高慢で尊大な人間でも、砲弾の前に命は平等だ。眼前には星々の瞬きが、圧倒的投射量を以て本部を炎と煙に包み込んでいる。
嗚呼。
全滅じゃない、これじゃ殲滅だ――。
ここにいては一人も生き残れない。すぐに確信した私は、俄に攻撃が止んだのを見計らって闇の中を全力で駆けた。
『……大尉だけじゃない。くそったれな戦友、同胞の達遺体を埋めることも、指を切って国に帰すことも出来なかった。――命惜しさに闇夜に逃げたんだよ』
『…………』
走り、歩き、走り――夜が明け、昼を過ぎ日が暮れる頃。
襤褸切れのようになりながら足を棒にして、漸く連隊が拠点にしている隣町の本部までやってきた。しかし、近づくにつれ足取りは重くなった。
――何故玉砕しなかったのか?
もしそう問われたら、私には自死の選択肢しか残されていなかった。
悠久の大義に殉ぜず、何故生きながらえる恥を選ぶ――?
喉の渇きと重々しい頭、恥という胸中の痼りが渾然一体となって私を苛む。それでも――部隊の玉砕は伝えなければならない。
『覚悟を決めて中隊本部壊滅の報告をしたんだ。でも……驚いたよ。連隊本部じゃ、第13中隊が全滅した事を喜んでいたんだ。神出鬼没の敵の位置を掴むには必要な犠牲だった――とね』
『酷すぎるわ……そんな』
『それだけじゃない。どんな愚連隊だろうと敵軍の攻撃により殲滅された事実は変わらないのに……、被害は無かったことにされた』
『まさか――』
その通りだ。
『そう。第13中隊は始めから存在しなかった。……各中隊の余り物で作られた臨時も臨時の部隊編成だ。無かったことにするなんて簡単だろう? 私のいた中隊は――名誉の玉砕すら許されず、皆死んでいったんだ』
『……軍隊として、あってはならない話だな』
隊長が怒りを滲ませた口調で吐き捨てた。私が経験してきた過去を余りにも端的に評する一言を聞き、徐に頭を上げた。
皆一様に沈痛の顔である。眉を顰め、やりきれない感情を逃がすように視線を中空に逸らしている。それだけ聞く側にも辛い話だったかもしれない。
でも、だからこそ――。
『奴が――、奴が生きてるはずはないんです』
この目で見た。
間違いない。
アレで生きていられる訳がない。
なのに奴は憲法施行記念式典に姿を現した。戦後2年近くも経って――。
『死んだはずの男。しかもグラスを割るほどの力を持った怪異か。困ったものだな』
『あのクソ憎ったらしいレフチェンコといい、死んだと思ってた野郎がひょっこり出てくるのは勘弁して欲しいぜ』
『だがいずれ対応を取らねばなるまい。ウラベ、その男について詳細に聞かせてくれ』
隊長の問いかけに、はい、と答えようとした時。
『……話し中悪いが、失礼するぞ』
念話と同時にノックが甲高く部屋に響く。
皆に向けていた顔を入口に振り向けると、例の来日していた監査官の代表が、口を真一文字にしながら扉に寄りかかっていた。




