15-4 Crime(米軍)――立川
――虚しい。
心を映したような曇天が低く垂れ込め、何もせずとも息が詰まりそうだ。溜め息がどんよりと腹の底から漏れ、微睡みに似た重苦しい瞼が瞬きすら億劫にさせる。
頭は空っぽ。なのに脚は勝手にいつもの駅へ向かっていた。
川沿いから歩き出し、いつも見ている駅の雑踏を抜け、日常のように切符を買い、普段使いのように電車に乗る。まるで非番の日常である。迷うこと無く列車に揺られた。
――当てなどない。ある訳もない。
家族は死んだ。現実という過酷な日差しを遮ってくれる、温もりに溢れた傘はもうない。オキュパイドジャパンという目も当てられぬ風景の中、当てもなく彷徨うだけだ。
自分でもハッキリとした理由があった訳じゃない。財布には遠くまで行けるだけの金があったが、別に遠くに行きたい訳でもない。
ただただ今の日常を離れ、人々の息づく中に戻りたかったのかも知れない。
駅も、沿線も、窓硝子越しに見る家々も――全て日常である。決定的な敗戦から既に2年近く。日々の暮らしは落ち着きを取り戻しつつあるように見えても、貧困と格差に喘ぐのは世の常である。
客車の扉を開けて車内を見渡せば、地方へ買い出しに出た帰りの客で息苦しい程に密である。座るどころの話じゃない。乗車した途端から押せ押せと奥に詰め込まれる。人の壁にぎゅうと押される状況にもかかわらず、足元にはゴミだらけの通路で寝ている人までいる始末だ。
――よくもまぁ、こんな環境で寝ていられるものだ。だが1年ほど前までは私もこんな状態だったのだ。この現実の中で生き、人と話をし、闇に怯えて生きていたのだ。
しかし――、今は誰も私に声を掛けない。皆ちらっと私を見てはすぐに視線を外す。きっと私の出で立ちが、全てを物語っているのだ。
薄暗い車内に一人、米陸軍のフィールドジャケットに身を包むサングラスを付けた男。きっと日系兵士と思われているのだろう。一刹那の奇異の目と触れ得ざる沈黙が私に纏わり付く。
日本人の癖に敵国に味方した存在。同胞を殺した日本人として見られているのだろう。
違う。私は「敗戦国の人間」だ。
皆の仲間、同胞だ。
――何故そんな目を向ける?
惑乱気味に首を横に振った時、前方の客車から紺色の制服――警察官が2人、警棒片手に入ってきたのが見えた。
闇物資の取締だろう。
見回っては威圧的に声を掛け、闇物資と分かれば否が応でも没収される。買い出しの働きも数日の食料も全てパァにする、悪鬼の如き所業である。
警棒をちらつかせながら、ぎろりと眼を見張る官憲。怯える乗客。それが都会に生きる人間の現実だ。
それでも――彼らは敵ではない。彼らもまた敗戦の現実を生きているのだ。
「あっ――」
官憲二人が私に気づき、声を上げた。煩い車内でも僅かに聞こえた間の抜けた声。
何か言われるかと思ったが……、彼らはただ視線を落としただけだ。私に気づかれぬよう、近場の人間に声を掛けている。皆の色は白いのに私を遠ざける。見なかったことにする。
――もう、うんざりだ。
次の駅に着いた時、人波を掻き分けて逃げるように降車した。
奇異の目が、眼が私に刺さる。心に、身体に、過去に、これまでの働きに刺さる。
非番の私服では絶対こうはならない。
私の服は、私が纏っているのは戦勝国なのだ。その現実が嫌になり、駅外れの沿道でフィールドジャケットを脱ぎ、勢い任せに地面に叩きつけようとした。
嗚呼、駄目だ。
手に伝わるジャケットの重みが、私に向かって叫んでいる。
霊的保護と過去の思い出が綯い交ぜに織り込まれた米国製支給品。数ヶ月にわたる戦いと苦悩、戦友達に思い出。デービッド、クラウディア、キャサリン、マイク、バーナード、隊長――順に巡る記憶の射影は、皆、今となっては善い思い出だ。
「くそッ……」
ジャケットが空を切り、バサリと大きな音を立てる。汗ばむ手からは放せない。虚しく袖に腕を通し、何事も無かったかのように歩き出した。
――なんてマヌケなんだ。
嫌悪感が胸を抉るように突き刺してくる。
見上げれば、既に闇の帳がゆっくりと東京の空に降りている。街灯の明かりがぽつぽつと道路に落ちては闇を照らしている。暗く塞ぎ込んだまま、私の脚は重く重く、ふらふらと当てもなく彷徨うしかなかった。
東へ。
意味がなくても東へ。
焼け落ちた東京へ――。
空襲の被害が少ない山の手と、猛火に晒された下町。関東大震災の頃から何も変わらない格差。平穏裏に見える状態こそが、敗戦国日本では既に格差なのだ。
頭に浮かぶ何もかもが否定的に埋もれる中、足を棒にしながら沿線や市街地を抜けていく。夕飯の香り、人々の濁声――日常の空気に当てられて胃がムカムカしてくる。脚が、胃が、頭が休みを欲している。コンバットブーツの頑丈さが救いという事実も、心に影を堕とす。
もうすぐ、小金井か三鷹の辺りろうか。安息の仮住まいを求めて住宅街の一角を歩く。なんてことない日本家屋と生け垣、林が散在する光景。
その片隅に――真っ赤な鳥居が目に入った。
逢魔が時の神社なら誰も来ないだろう。
六本木の時と同じ畏怖が脳裏を過るが、休みたい欲求には敵わない。暗闇がそろそろと降りる境内に足を踏み入れた。
見たところ、何の変哲も無い神社だ。
暗がりに白く輝く石畳が20米程、私の足元から社殿まで整然と続いている。社殿は小さく、端々に年季を感じさせる黒ずみはあるが塵一つ落ちていない。
境内の四方は木々が鬱蒼と茂り、その壁が僅かな光をも遮っている。電灯のランプだけがひっそりと参道を照らし、拝殿正面の注連縄が音もなくゆらゆらと揺れている様に、僅かばかりの寒気が背筋を走った。
しかし、――おかしい。
普通の人なら絶対気づかないだろう。
だが私は気づいてしまった。
――色だ。
左手の社務所と思しき建屋の横、木々に囲まれた一角。単なる木陰なはずだが、紫色に輝いているのだ。
高さ6尺程度、横幅3尺の長方形。扉のようでもある。七宝のようにキラキラと輝き、紫の色相が見惚れるほどに美しい。
これは何だろう――?
疲労で重くなった頭に判断する力などない。好奇心が勝手に脚を動かしている。目の前まで来ると視界が紫色の輝きに埋め尽くされる。
穏やかさよりも荘厳さ。
いや、警告でもあろうか?
恐る恐る右手を伸ばすと――何の抵抗もなく、虚しく手が空を掴んだ。暖簾に腕押し、煙に映る映写機の輝きに伸ばした手のように、何も掴めない。
この先に何かあるのだろうか――?
紫色の輝きに身体ごと潜ろうとした時である。不意に脳内に声が響いた。
『――困った人ですねぇ、こっちを見つけてしまうとは』
……数ヶ月ぶりに聞いた。
俳優気取りのイントネーションは忘れもしない。
『ラセツ』幹部、東京支部長、伊沢拓弥。
まさしくその声だった――。




