14-8 Flotsam(ダゴン)――駿河湾
その瞳は闇深く、赤黒い炎を湛えて。
甲羅に見えたのは背中――、だが甲羅ではない。岩礁のようにゴツゴツとしながらも、表皮の全てが艶やかに鈍い光を映す。丸い岩礁と見紛う程の巨大な背は、異常なまでに発達した広背筋のようだ。鱗やヒレは見る者すら傷つけそうな程に鋭い。
真白き探照灯の輝きを浴びて、その黒々とした巨躯を奮わせる。巨大な魚人は大手を天へ海へと振り回す。
――怒りじゃない。
これはきっと狂喜だ。
何も見通せない深淵から、我々の眼球が認知できない驚怖と戦慄を纏わせながら、地球上の大気を目一杯吸っている。
確証なんてない。
だがそうとしか思えない。
共感覚の成せる技だろうか。身体全体から発せられる赤黒い色相は、威嚇的でありながらも微かに喜びを浮かべているように思えるのだ。
『た、隊長! 奴が動いてるぜ!』
『こちらでも視認した。現在、奴との距離を一定にしてもらうよう艦長から指示を出してもらっている。キャサリン、奴の情報は?』
『え……は、はい。少し待ってください』
魚人との戦闘の間、ほどほどの時間があった。いつもならば接敵と同時くらいには、敵対怪異の分析が終わっているはずだが――。
キャサリンは元々読書家で、怪異についての知識は目を見張るものがあった。無論、アマチュアであるから民俗学や宗教学の研究者と比肩は出来ない。しかし、実戦に役立つ情報、特に「その怪異が何者であるか」を共有できるだけで、我々には欠かせない働きなのだ。
探知装置兼相談役のグレムリンも、世界中の怪異をポンポンと言い出したりする。怪異は怪異同士、人間には感知できない念話でもしているのだろうか?
――しかし、今回は余りに冴えない。
フォカロルの時のように、求められる情報は違っていても大凡対象を把握できているものだが。
『敵怪異、該当なし! え、いえ……。あー! もう、グレちゃん! はっきり言って!』
キャサリンの混乱がそのまま脳内に響く。
『おいおい、しっかりしてくれよな』
『まーた、あのトンチキがおかしいんじゃねぇか?』
『て、敵の、怪異の名前は――ダゴン! 多分ダゴンです! 古代メソポタミアで信仰されていた神様で……え、違うって? あー、もう! グレちゃんッ!』
初めて聞いたキャサリンの怒声。
いつもの彼女らしくない。
それどころかグレムリンの様子がおかしいようだ。立川から駿河湾沖合まで、グレムリンの調子外れの笑い声が脳内に響き渡った。
『キヒヒヒ――! ワカラネェったらワカラネェ! アタラシイ! アタラシイ! シンザンモノじゃ! デアエデアエー!』
アタラシイ?
新参者?
意味不明はいつもにしても、何だかんだ言って核心を突いているのがコイツの常である。だが、今この瞬間には全く意味を成さない情報群であることには間違いない。
『――もういいッ! 巨大怪異の名称はダゴンで確定する! 小型の怪異は暫定的に魚人と呼称する! ダゴンとの距離は3km程度、まだ接近を許してはいないが、これより水上戦闘を行う。バーナード、機関砲の準備は良いか?』
『大丈夫です。ただ、こちらに3人を回してください。担当士官が怯えて部屋に戻ってしまいましたので……』
ばつの悪そうな報告に自然と口角が下がった。
本来ならそれが当たり前なのだ。
真っ暗な夜の海に、敵国の潜水艦や戦闘機ならまだ良い。こちらを殺しに来てるとはいえ人間だ。予測も可能だし準備も出来る。
だが――辺り一帯に聾するは人ならざる金切り声。
今は静まりかえっているセイレーンの歌声もあった。
明らかに人を殺せるであろう異形の化け物共が、闇夜に紛れてすぐ近くを彷徨いているのだ。屈強な兵士でも幽霊にすら怯えてしまうのに、今眼前に聳え立つのは体長十数米を越える巨大な化け物。普通の兵士には荷が重すぎる。
――――ヴォォォォオ。
この間にもダゴンの叫び声は続く。
さらにはこちらを見据えて、腕を大きく振りかぶりながら近づいてくる。器用な立ち泳ぎか、怪異らしいよく分からない結界か何かで浮遊しているのか?
だが――どうにも出来まい。
この駆逐艦の最大戦速は34.5ノット。時速にすれば64粁近く出ていることになる。マグロやカツオほど速くなければ、この駆逐艦に追いつくことも出来ない。我々は悠然と円を描く様に、距離を取って周りながら闘うしかないのだ。
『マイクとデービッド、クラウディアは左舷前方の40mm機関砲に来てくれ。ウラベは左舷前方、第二砲塔付近で待機。敵怪異に色の兆候が出れば随時報告を頼む』
『分かりました』
赤黒い――それは変わらない。
照明弾や探照灯の明かりに照らされながらも、悠然とこちらに向かってくる。決して追いつけないのではあるが、その異様な姿に畏怖を覚えない者はいないだろう。
甲板を走り抜け、私以外の3人はハシゴを登って左舷上部の機関砲へ向かった。私は左舷前方の手摺りに手をかけながら、奴を見遣る。
――状況は一向に変わらない。
狂喜と敵意が入り混じる気色悪い色にも変わりはない。
『発射準備完了しました。いつでも行けます』
バーナードの沈着冷静な声色は、我々を落ち着かせてくれる。アメリカ本国では峻烈な人種差別と戦い、欧州戦線では精鋭無比なるドイツ軍怪異部隊達と戦い、今は極東の島国で見も知らぬ怪異と闘う男の人生の重みは――怪異と相対する我々を勇気づけてくれるのだ。
『よし! 射撃開始!』
号令一下、私の頭上斜め左上にある60口径40粍機関砲が昂然と火を噴いた。
ドンドンドンドン――と、大太鼓を調子よく叩くような轟音が響き渡り、4発に1発の割合でオレンジ色の曳光弾が、闇を滑るようにダゴンに向かって飛んでいく。
航空機であれば一撃の下に翼を捥ぎ、撃墜する高威力の大口径砲弾だ。それが照明弾に照らされた巨人の両肩、胸部に的確に撃ち込まれている。輝く曳光弾が闇夜にビーム状の弧を描き、神聖化された弾頭が光環が真っ白に輝きを迸らせる。
数発着弾した時点でダゴンの身体がぐらりと揺れ、体勢を大きく崩したのが見えた。
――バーナードの『狙撃』は相変わらず恐ろしい。
最大戦速で船は走っているのだ。適正がなければ嘔吐して当たり前なほどに上下に揺れている。そんな船上から的確に全弾を命中させている。対空砲火など1機落とすのに数千発使うのが当たり前と聞いていたから、これはやはり異常である。
函館要塞の霊的自動迎撃兵器もこれを目指したのだろうが――今となっては後の祭りである。
『着弾確認! ダゴン、体勢を崩しています』
体勢を崩したダゴンに、バーナードが問答無用とでも言わんばかりに頭部へ集中砲火を浴びせる。砲声のリズムに合わせて着弾の光環も輝く。
だが――。
『……足りないな』




