14-7 Flotsam(ダゴン)――駿河湾
「『怪異だッ!』」
恐れを振り払うように叫んだ。
艦腹を叩く鈍い音の合奏。常世の闇を引き裂かんばかりに響き渡る中、艦尾に近い左舷側に赤い人型がのそのそと甲板に登っているのが見えた。実際の色は見えないが、きっと黒色に類する肌をしているだろう。
暗闇の中に紛れる水も滴る魚人。闇夜を纏うその姿は、甲板上の薄暗い照明や探照灯の反射だけでは見つけられないだろう。だが私の眼は捉えている。
『なにッ?!』
『隊長! 本艦周辺に多数の人型怪異が回遊しています! 一体が左舷後方の甲板に上がってきました!』
『いかん! バーナード、視認できるか?』
『……駄目です。暗すぎます。射界に捉えられません』
『クソッ! 照明弾を上げるぞ! ウラベ、それまで観測を頼む!』
『了解!』
深淵より這いずり上がってきた人型怪異は、見えるだけでも数を2から3に増やしつつあった。どうやら艦内に侵入する様子はない。ウロウロと後部甲板で彷徨っている。もしかしたら増援を待っているのか?
――時間がない。
マイクと合流すべく駆け足で船体中央まで駆け抜ける。カンカンと甲高い足音が束になって響き渡る中、ちらりと右の海面を流し見ると、気色悪い赤が明滅しながら悠然と回遊している。
数え切れない生臭い光点。
『よぉーし、武器を持ってきたぜ! 受け取りなッ!』
船体中央に差し掛かると同時に、扉を蹴破ってマイクが飛び出してきた。言葉を合わせるまでもなく、闇夜の甲板で交差する戦闘準備――機関銃や英国製騎兵銃が僅かに空を舞う。
息はぴったり。寸分の狂いもなく、銘々に武器は手の内に吸い込まれる。
消音器を外してある機関銃のボルトカバーを開放し、デービッドは英国製騎兵銃の槓桿を引いて弾倉から装填する。
クラウディアは刺突剣――ジャマダハルというらしいが、馬腹にトドメを刺した短剣を両手にはめながら、我々は甲板後方へ走り出した。
「――照明弾を上げるぞ! 最大仰角で撃てッ!」
突然、艦長の叫び声にも似た英語の怒号と発射前の警報がスピーカーから響き渡った。
バァンッ――!
怒号とほぼ同時に、駆逐艦の前方から雷にも似た爆発音が闇夜に劈いた。後ろを振り向くと、第一砲塔の5インチ砲から曳光弾が、新月の空に吸い込まれるように上昇していくのが見えた。
見上げれば、ささやかに花開くたった一つの煌星。
大輪の花は咲かず。皓々と闇夜を照らす目映いオレンジ色の星が、ゆっくりと重力に引かれながら輝きを放つ。闇を照らすことを宿命づけられた人工星。
だが――照らし出されたのは、闇。
あまりにグロテスクな、暗い海より来たるもの。
『なんだ、ありゃあ……』
後方甲板に差し掛かった時、他の皆にも見えたのだろう。あの魚の顔をした――いや、身体も背びれも全てが魚人としか形容しようのない怪異だ。
巨大な目、てらてらと光る鱗、刺々しいヒレや突起。
身長は5尺程度だが、筋骨隆々の魚人の姿なのだから見てるだけで薄ら寒くなる。こんなのを夜、不意に目撃でもしてしまったら、普通の人間なら閉口し、或いは絶叫し神に許しを請うかも知れない。
『――気色悪いですね』
『食っても不味そうだな』
『へッ! 魚のバケモンか! 人の形をしてるなら――殴りやすくて良いなッ!』
――ウチはそんな心配はいらない。
後部甲板に上がってきた怪異は3体。駿河湾の海水を滴らせながら、聞くに堪えない唸り声を上げ、我々を視認し、こっちに向かって走り出した。
『俺は右!』
『私は左を!』
『真ん中ぶち抜くぜッ!』
『……援護しますッ!』
負い革と銃把を引き離すように押しつけ安定化させる。落ち着きはらった指先で引き金を細かく操作し、一発一発狙い澄まして撃ち込んでいく。
闇夜に劈く発砲音。5インチ砲の轟音をバックに、軽快かつリズミカルに銃声が奏でられる。
照明弾の光に照らされて甲板に影が染みる。その影すら引き剥がすように、機関銃の閃光、着弾時の光環が目映く闇を照らした。記者会見の閃光のように、闇を劈く発砲音と共に魚人共を包み込む。
『ギギぎぎィッ!』
バタバタバタ――とささやかな雷鳴を響かせながら銃弾が間断なく魚人の身体を貫いていく。黒々とした血飛沫が舞い、人ならざる金切り声に耳がもげそうだ。
それに比べ、クラウディアの戦いはあまりに静かだった。
銃弾に倒れた魚人達から目を離すと、クラウディアは拳を突き出したまま、ど真ん中で立ち尽くしていた。
刺突剣。
切っ先には魚人の首だけ。
どれくらい鋭い一撃だったのかは、甲板に倒れ込んだ魚人の首元を見れば言葉にする必要もない。
――やはりコワイ女だ。
デービッドの英国製騎兵銃も的確に頭部を撃ち貫いており、魚人は虚しく天を仰いで斃れている。その目は闇に塗れ、文字通りの『死んだ魚の目』に口の中が乾く思いがした。
たった数秒の出来事。
戦場に場慣れしたチームの圧勝に思わず武者震いした。戦い終わってから、というのも些か不思議なものである。
『隊長、後部甲板の怪異を排除しました』
『よし! これより本艦は最大戦速で怪異より距離を取る。艦長、頼む』
「――All engine ahead full!」
次の魚人が上がってくる前に。
我々の移動中にも準備していたのだろう。隊長の念話の直後に、腹の底から響く重低音が足元を伝って来た。海面を見ると、赤い魚人の影を置き去りにするように駆逐艦の船体はぐんぐんと前に進み始めた。
全速前進。
足元に伝わる振動が心地よく頼もしい。
夜の湿った寒風が身に刺さるとは言え、機関から伝わる人工的な振動、断続的に5インチ砲から上げられる照明弾に、闇をも克服する人間の驚異を感じざるを得なかった。
機械に安堵し、技術に縋る。
それは人間の傲慢にして尊厳。
だが期待はすぐにも裏切られるのが世の常。
人の世であれば尚更だ。
――――ヴォォォォオ。
低くくぐもった吐き気のする唸り声。
耳障りという次元ではない。耳から脳が焼き切られるような不快感を覚える、地獄からの残響。僅かに切り裂かれた闇が蹲る大海原に、気色悪い重低音が突然木霊したのだ。
『なッ――なんだ!?』
『うぇ……』
『こ、この重低音は……?』
私だけじゃない。皆にも聞こえているようだ。
セイレーンのような甲高い声――ついぞ私は聞こえなかったが――ではない。腸を抉るような濤声、自然が織りなす驚異の声とでも言おうか。機関の人工的な音では決してない。
――分かる。
本能が恐怖を叫んでいる。
皆が耳を塞ぐ中、私はふと見上げた海面を茫然と見ていた。
全然気づかなかった。
赤、黒、てらてらとした甲羅。
岩礁は、やはり岩礁ではなかったのだ。
オレンジ色の煌星を、闇を切り裂く白刃を浴びて。照らし出されているのは巨人。
目算でも体長は5階建てビルヂングほどもあろうか。先の魚人を遥かに大きくしたような巨躯を海面から突き出し、口を割れんばかりに開いて天を仰ぎ――叫ぶ。
魚類の特徴を有した超巨大生命体。
いや、生きていないだろう。
これは――怪異だ。
巨大な怪異だ。
脳が恐怖に怯える中、茫然と見つめる私と――眼が合った。




