14-6 Flotsam(ダゴン)――駿河湾
『アレに違いありません――』
「『よし、東を目指す。チャールズ、取り舵いっぱいに頼む』」
「――left full rudder!」
私の報告は流れるように隊長、艦長、操舵手と瞬く間に伝わり船体が大きく右へ傾いた。
私しか見えない『赤い炎』は舳先の向こうに煌々と燃え上がっている。だがここからでは良く見えない。急ぎ近くのハシゴを下り、第一砲塔横を抜けて舳先まで走った。
視界いっぱいの暗闇。
明かりはこのフネだけと言っていい。
私の眼は死んだ星空を頼りにせずとも、ぼんやりと闇を見透かす事が出来る。それにしても、水平線近くに見える赤黒い炎は紛れもなく……。
『距離はどれくらいか分かるか?』
あれだけの怪異だ。対象への接近に終わらず、戦闘行動へ移行する可能性は大いにある。既に時間との戦いという段階に入っていた。
『――いえ。ですが、この感じなら近づけば分かります。その時には再度伝えます』
『分かった。注視しておいてくれ』
隊長の念話を終えて船の舳先を見越して見るが、思ったより近い。真っ黒い水平線に沸き立つ赤い色。闇夜の焚き火、沸き立つ赤黒い炎との距離は、船体が接近している数十秒の間でも差がハッキリと分かるほどである。
せいぜい5km程度か――?
『ウラベ、何か嫌な感じがしませんか?』
デービッドが恐る恐る尋ねてきた。
『あの色のことか?』
『いや、――こう、誰かに見られているというか』
『あぁ。何か嫌な感じだぜ』
クラウディアがグローブをギチギチと締める音が聞こえた。
緊張しているのだろうか。
「『俺は船室から武器取ってくるぜ』」
続け様にマイクがひり出すように重い声を上げる。さっき飛び出してきた船体中央の船室迄の距離が――長い。
『頼みます』
走り去るマイクの背中がどんどん小さくなる。不安げに怪異を流し見ると、やはりずんずんと近づいている。あと数分もかかるまい。冷たい潮風を纏いながら邪気が迫る。
『隊長、そろそろ探照灯で照らして良いかと思います』
『ん――、分かった』
艦長に指示を出し、今度は船体が大きく右に曲がっていく。そして間もなく、船体後方から真っ白に輝く光線が闇夜に放たれた。
漆黒を真っ二つに切り裂く極太の光線――。
水面を舐めれば白円が闇を滑っていく。だがその先は行く先知れず、虚空を流れるばかりである。
『大体で良い、方角を指示してくれ』
隊長の念話をクッションに、私が探照灯に指示を出すことになった。『もう少し右です』と、当てもない光線は海面を舐めながら微修正されていく。赤黒い炎はその源が目視できる程近づいていた。怪異という演者のいる舞台に探照灯が当てられる。
「『あれだッ! 反射してるぞ!』」
隣に立つクラウディアの大音声が耳を劈く。不安からの驚きだろうが、敵意を剥き出しにした雄叫びに近い。
私の眼には――赤黒い炎を纏う岩礁が、真っ白に塗りつぶされるように見える。きっとクラウディアには暗闇に浮かぶてらてらとした――イノマタの言を借りれば――亀の甲羅のような物体が浮かんで見えるのだろう。
「『目標を視認した。艦長、ボートを降ろせるか?』」
後ろを振り返れば、隊長が艦橋から出てきて艦長と共に伝声管の前に立っているのが見えた。薄暗い照明だが、救命胴衣下の白服はハッキリ視認できる。愈々怪異の調査に入らんと、俄に船全体が騒がしくなる……そう思った時。
――妙な声が聞こえた。
言語じゃない。
腹の底から響く呻き、それが一番近いだろう。
黒滔々たる静寂の闇から、さざめきにも似た音が聞こえてくる。
男でも、女でもない。
『こ、これは――!』
『隊長――! まさか!?』
デービッドと、何処にいるか分からないバーナードの狼狽がざわざわと脳裏で騒ぎ立てる。
『間違いない……セイレーンだ。この甲高い歌声、間違うはずもない!』
セイレーンに、甲高い歌声――?
鬼気迫る遣り取りが脳内を駆け巡る中、その一言が強烈に頭を擡げた。
呻き声ではないのか?
男とも女とも付かぬ声なはずだが、隊長達にはどう聞こえているのだろう。
『バーナード、左舷側の機銃座に着座! 私も援護する! デービッド、ウラベ、クラウディア、マイクは武器を確保し次第、左舷側船体中央に集合。……キャサリン! 聞こえているかッ!』
『へ……は、はいッ!』
『寝ぼけている場合か! 当該怪異の分析を開始!』
『り、り、了解しましたッ!』
脳内に響き渡る声は――恐らく艦載されている電信通信機にウチの特注無線機を接続しているのだろうが、場違いなまでに可愛らしい。
女の甲高い声。
さっきの怨嗟のような音は、私以外にはこれくらい甲高い声に聞こえているのだろうか。艦橋前甲板にぼんやりと青く浮かぶ隊長を見つめながら問いかける。
『隊長、声が聞こえるんですか?』
『あぁ。……ウラベ、この甲高い声が聞こえないのか?』
『はい。私には――』
ばしゃり――。
突然、海面で何かが跳ねたような音が聞こえた。
暗天なれど波静か。
この余りにも静かに凪いでいる漆黒の海面に、そして新鋭駆逐艦にはふさわしくない水音。
べちゃべちゃ――ばちゃばちゃ。
さらにバンバンと艦腹を叩くような鈍い音も、闇の帳に響き渡る。
魚にしては大きい。見たことも聞いたこともないが、イルカの跳ねるような音だろうか?
だが、今眼前には赤黒く燃える岩礁があり、怪異セイレーンの歌声が響き渡っている。こんな時にそんな呑気な事など――。
一抹の不安が脳裏を過り、即座に身体を突き動かした。左舷側の手摺りに近づき、真っ暗闇の海を覗き込む。
首を闇に突き出すと……。
「うわッ!」
素っ頓狂な声が腹の底からブチ上がった。視界下方に広がるのは漆黒――じゃない。
赤く光る魚が、何匹も何匹も船の周りを回遊している。真っ暗な海は磨り硝子の如く、深海から幾つもの輝く大魚が――ゆらりゆらりと船の周りを取り囲んでいる。
幻想的ですらある、闇夜に輝く巨大な赤蛍。
魚――しかないだろう。
だが魚類ではない。
私は見てしまった。
海面近くまで上がってきた個体。
目は爛爛と真っ赤に光り、人の形をした魚。
背びれ、水かき、気色悪い魚の顔!
――嗚呼!
この共感覚を濾してでも見える!
無数の手が海面から伸び、駆逐艦の艦腹を叩き――何匹かが群れとなり、甲板に登ろうとしていたのだ。




