14-5 Flotsam(ダゴン)――駿河湾
目の前に鎮座する5インチ砲は遥か遠くを見据え、波濤を砕き船は進む。大陸にいた為、ついぞこれら米海軍と一戦を交えることはなかったが、今では戦わなかったことに安堵している自分もいる。
チラリと腕時計を見ると、もう17時を回っている。夕暮れはやがて黄昏へ、宵の口へ、闇の帳へ姿を変えるだろう。
クラウディアとデービッドが談笑しながら甲板を後ろに下っていき、私とマイクが艦橋下のデッキで柵に寄っかかって風を浴びていた。
『あぁー、たまには一服してぇなぁ』
腕を天に伸ばしながら気の抜けた声でマイクが呟く。その意外な言葉に私は驚き振り向き、サングラス越しに目を見開いた。
「え……、マイクは煙草吸うんですか?」
――そもそもだ。
この隊で驚いたことの一つに煙草がある。
事務所でも戦闘前でも、――誰も煙草を吸っていないのである。
何かの不文律か。
そう思いながら、何も言わずに私も吸わずに数ヶ月を過ごして来たが、今になってマイクが煙草を吸いたいという。
マイクは口角を歪ませながら、ポケットに両手を突っ込んで寂しげに肩を竦ませた。
『あぁ、ウラベには言ってなかったな。昔は、この隊でも当たり前にスパスパ吸ってたんだよ。でもな――』
ちらりと視線を流す。
その先には、遠くでデービッドと一緒に立ち話をしているクラウディア。夕暮れの輝きを背景に、ブロンドヘアーが勢いよく風に靡いている。
フランスでの戦闘。ベートにタバコの臭いを探知されてクラウディアが重傷を負ったのである。幸い、デービッドに治療してもらい事なきを得たが……。
『それ以来、俺たちは煙草は吸わないようにしてるんだ。煙草の火が命取りになるんなら、誰が吸うもんか――』
それでも言葉に出したい。
肺いっぱいに煙草の煙を味わいたい。
美味いものは美味い。
――クスリと笑った。
『この強い潮風なら、一服しても良いんじゃないですか? 臭いもつかないでしょう?』
『ん――、それもそうだな』
マイクはしれっと煙草を後ろポケットから取り出した。
きっとこの時を待っていたのだろう。口の端が上がっている。
『よければ、一本ください。私も吸いたいので』
『ウラベ……。あぁ良いぜ』
汚れた東京の道端で広うシケモクではない。英国製煙草である。お洒落なパッケージに否が応でも期待が高まる。
燐寸が赤燐が勢いよく擦られ、白い炎が上がる。私達は風に負けぬよう、身体を寄せ合うようにして口にくわえた煙草で火を吸った。
――煙と香り。
二人の間の僅かな空間に充満する。
異国情緒ある香りを楽しみながら、大きく吹かした。
一体いつ以来だろうか。脳裏を過る戦場の喫煙は土の味がした。
今も戦場には変わりない。だが命令でもなく強制でもない。自分の意志で信頼する仲間に囲まれている。
夕暮れの残滓を遥か遠くに見つめながら、半年以上ぶりに吸う煙草は格別だった。
それから4時間半近く。我々は闇の帳が海を覆う中、暇を持て余し宛がわれた部屋で待機していた。質の良い部屋じゃない。要はただの倉庫を急遽改造した部屋に過ぎない。
隊長とバーナードは艦長室に出突っ張りだ。クラウディアは暇々と愚痴を零していたが、いつの間にかすっかり眠ってしまった。粗雑なベッドと椅子に腰掛けながら、私はデービッドと談笑して過ごした。
途中、2人の下士官が食事を持ってきてくれたので、シチューとパンのディナーに舌鼓を打った。旧軍の大陸にいた頃に比べると、本当にいいものを食べている自分に改めて驚くばかりである。
そんな感慨に耽りながら時間を過ごしていると、ふと見上げた時計の針は21時近くを廻っていた。腹時計ならぬ欠伸が重なるように時を告げている。
突然、眠気を払いのけるように騒音が部屋に響き渡った。
艦内スピーカーのアナウンス。
当直士官が時刻を告げた後、艦長がすぐに替わった。
「こちら艦長のチャールズだ。本艦は予定した海域に到達した。……これからは事前の打ち合わせ通りだ。士官と班長のみ艦橋へ集合。また、これより指定された者以外、任のない者は甲板への外出を禁ずる。繰り返す、手の空いてる奴は甲板へは出るな――、決して!」
正確な訳が正しいか分からないが、最後のNeverだけは、強烈に響いた。
やや遅れて隊長の念話が頭に響く。
『艦長の言ったとおりだ。士官へは説明の必要があるが、それだけだ。怪異への対処は我々だけで行う。デービッド、マイク、クラウディア、ウラベは艦橋前甲板へ集合。バーナードは指定の持ち場へ。私は艦橋から指示を出す』
『了解しました。行きましょう、ウラベ』
『取り敢えず、寝てるクラウディアを叩き起こしてからな』
マイクの呆れ顔と気持ちよさそうに寝ているクラウディアが、見ていて微笑ましくもあり、私も呆れるのだった。
部屋を出て薄暗い白色の艦内照明に照らされた、これまた狭い廊下を駆け抜ける。
もっとも明かりなどなくとも、ぼんやりと全ての輪郭が浮かんで見える。灰色に浮かび上がる床面、壁、梁。
噂に聞く暗視装置とは、このように見えるのだろうか?
どうでも良い雑念を振り切って、先を行く白く輝く三人の背を追う。
甲高い足音がカンカンカンカンと響き渡る。先頭を行くデービッドが、甲板へ出る扉を勢いよく開け放った。
冷気が叩きつけるように頬にぶつかる。春も本番、されど海の夜寒である。想像を越える冷たさが、制服の上からひんやりと身体を包み込む。
『――寒いじゃねぇか、おい』
『そりゃ沖合で風は強いし夜の四月だぜ。――まぁ、北海に比べれば屁でもないが』
『急ぎましょう』
呑気な会話が脳裏を飛び交う中、私は空を見上げた。
月明かりなく、星は死に絶える。
太陽の輝きは既になく、海の深淵に沈む。
新月の空は余りにも黒々と――海をも呑み込む闇が、眼前を覆い尽くしていた。
幸い足元は認識出来るくらいの照明がぽつぽつと付けられており、マイク達が慎重な足取りで前を進んでいく。海軍の夜戦では照明を落として真っ暗にするものだが――これは艦隊戦ではない。事実上の哨戒任務に過ぎず、明かりを消す意味合いは少ないと判断されたのだろう。
ラッタルを駆け上がり、第二砲塔と艦橋の間に集まった。
首を真上に見上げると直上に艦橋がある。しかし、壁と壁に挟まれるような圧迫感のある構造である。角度が悪いせいで艦橋を望むことは出来ず、僅かに明かりが闇に漏れているのが見えた。
『ソナーには感なしとのことだ。例の怪異は動力音を今のところ発していないようだ。暗闇で奴を探すのは至難の業だが……ウラベ、頼みがある』
私は見上げながら深く頷いた。
『色――ですね』
『あぁそうだ。敵が怪異ならお前には見えるだろう。……出来るか?』
『やってみます』
邪眼が共感覚を手に入れ、観念動力も手に入れた。それは悲劇かも知れないし喜劇かも知れない。
それでも……私は役に立てたい。
『ウラベ、こっちが西側だ』
マイクが右舷側、12.7ミリ機銃が備え付けられてある所で私を誘った。駆逐艦は南に向かって停止しており、風はあるものの船の揺れはそれほどでもない。
『隊長、現在の海域は――』
『御前崎より南東に40km以上離れている。レーダー担当士官からは近隣に船はなしとのことだ』
デービッドと隊長の会話を聞き流すように漆黒の海を見つめる。
しかし――何の色も見えない。
ただただ潮風が身体を撫でるだけである。
仕方ない、と諦め反対の東側を見ようと砲塔真裏まで歩いた時である。
瞬く間に背筋が凍った。
赤――。
燃えるような赤が――。
漆黒の闇を纏いながら――。
水平線から燃え立っていたのである――。




