14-2 Flotsam(ダゴン)――駿河湾
「おや、ウラベの旦那は雨でもサングラスですか? 決まってますねぇ!」
――イノマタである。
あの愛国主義団体に属していた、イノマタである。
短髪の団子っ鼻に灰色の着物、薄手のコート、そして寄れたハットを目深に被る。その萎れた外見とは裏腹に眼はギラギラと現実を見つめているのだ。
「今日も不気味で不思議な良いネタ揃えて来ましたよ!」
彼は見えていたのだ。
あのタケミナカタが。
怪異は本来、人の目に見えない。或いは朧気に肌に感じる程度でしかない。恐ろしくて肌寒くなるという言葉は得てして正鵠を射る。
だがその程度であるからこそ、人は常識の上に高度な文明社会を築き、深淵の闇に怯えなくて済む。
おそらく――、彼は元々霊感の強い人間だったのだろう。
彼の政治思想の遍歴は私も知らない。しかし、感が強かったからこそ『死の恐怖』に怯え逃げ出したのだと思う。
そして彼は『我々』を目撃した。
敗戦の現実に逃亡した日常を崩壊させるには必要十分。その転機は目まぐるしく、彼の中で何かが吹っ切れたらしい。彼はなんと『情報屋』への転身を果たしたのである。
「重めの感じデスか? 軽めデスか?」
デービッドがやや倦んだように、馴れた口調で事件の軽重を尋ねた。
「へへっ――、まぁまぁ、まずは雨風を凌げる場所で話しましょうや」
ふふんと鼻を鳴らすと、イノマタは足取り軽く近くの食堂に向かって歩き出した。歩行は自信に溢れる。
だが私は知っている。
その影には「英語の勉強」「情報の収集」という並々ならぬ努力があったことを。
正規の職業でもない糊口を凌ぐ綱渡り。しかし成長著しい彼によって集められた情報に、我々も幾度か世話になっていた。
並ぶ傘は三つ。
衛兵が我々をチラリと睨んだ。
立川基地南端ゲートのすぐ、日本人だけではなく米兵の眼もある。進駐軍のおこぼれを狙う人間も多いが、事件を起こせば絶対権力が猛威を振るう。だから、おいそれと事件に巻き込まれることもない塩梅の良い場所でもある。
くすんだ生地に白抜き文字で饂飩――と書かれた暖簾を潜り、イノマタの威勢良く空いている席に座った。
店内はそれほど混雑しておらず、注文するとちゃんとした饂飩が出てくる。マーケットに流通するような粗悪粗雑な混ぜ物ではない、ちゃんとした小麦である。
故に少々値が張るが。
「さぁさぁ、こいつを御覧うじませ」
饂飩が来るまでの間、イノマタは慣れた手つきでポケットから手帳を取り出す。
外装真新しい手帳だが、ページは一丁前に手垢にまみれている。流れるようにパラパラと捲り、耳に挟んだ赤鉛筆を華麗に取り出してペン先を立てた。
「まぁ、俺もまだまだひよっこだけど分かりますよぅ、結構でかいヤマっぽいのがコレですよ!」
どれどれ――。
私もデービッドも机の上の手帳を覆い被さるように覗き込んだ。
ペン先。
そこに書かれていたのは確かに奇っ怪な、それでいて確かに興味を引く一文であった。
――駿河湾に突如現れた謎の岩礁!
「『船の残骸ですか?』」
夢も希望もない指摘だ。
デービッドもバーナードの癖が付いたのだろうか?
私も怪訝な表情をしてイノマタに視線を送る。
駿河湾は近海の割にすぐに峻烈な――岸壁と言っても良いほど深くなる珍しい海である。そんなことは小学生でも知っている。もっとも詳しい深さは忘れたため、気恥ずかしさに頭を掻いた。
しかし事実は変わらない。
沖合は即ち深海なのだ。光の全く射さぬ絶望的な暗い闇。そういう人跡未踏の空間であることは容易に想像が出来た。
そこに岩礁などある訳がない。
口角上げ気味のイノマタは、ふふんと鼻を鳴らした。
「そう言うと思いましたよ! そりゃ普通はそう思いますよねぇ。最初に発見したオンボロ掃海艇も、残骸か新式の機雷かと疑った訳ですよ」
あぁ、さもありなん。
戦時中のことである。米軍は日本近海に大量の、あまりに大量の機雷を投下した。
磁気機雷にせよ接触機雷にせよ、近くを通ったら大爆発する「海の地雷」である。誰彼構わず敵も味方も関係なく、猛烈な爆発が船を襲うのだ。
いくら敵地とはいえ、……いや、正しく戦争である。
機雷を各海峡や近海に大量に投下したことで、日本の船舶移動は見るも無惨に制限され、文字通り日本は干上がることになった。対馬から望める朝鮮にすら渡航が難しくなり、食料の輸入が大幅に滞ったのだ。
――既に戦争が終わり2年が経とうとしている。
平和な時代になっても、海底に沈む機雷は山のように残っている。機雷を除去する掃海作業は今後も、もしかしたら百年掛かるかも知れない。それぐらいの量なのだ。
だから掃海艇は今も日本近海を走り回っており、その内一隻が残骸処理に宛がわれたのだろう。
「――ところが、おかしな事が起きましてね」
イノマタは意味ありげに深く前のめりに腕を出し、眉を顰めた。




