14-1 Flotsam(ダゴン)――駿河湾
卯月の末、しとしと雨が降る。
柔肌を撫でるような優しい雨は春の終わりを告げる。曇天東京を覆い、人憎々しげに空を見つめる。戦災に焦げたくすんだ大地は叙情的に染め上げられる。バラックの雨漏りに人の嘆息が漏れているに違いない。
灰色の空に薄暗い空。
それでも私の眼には十分である。
茶色に煙る眼前に、優れた光覚により輪郭がはっきり見える。
そして人の色も――。
『良い具合に決まってんじゃねぇか、えぇ?』
『似合ってるわよ、ウラベさん』
『パイロットみたいで格好良いですよ』
『様になってるぞ、ウラベ』
執務室に出勤した私を出迎えるように皆が褒めてくれた。僅かな色彩の差異はあれど、皆微かに青白く輝いている。ささやかな光背、後光を纏いながら――、皆の笑顔が私に向けられる。
一週間ばかりの療養期間。
今日から復帰だ。
このサイコキネシスと共感覚の獲得以外、身体の不調など何処にもなかった。――が、眼は眼である。常に顔にくっついている。剥き出しの武器だ。
日常生活において周囲に危害を及ぼさないか?
スティグラー博士の発案は正しい。私は久々の長期休暇を自宅で過ごした。基地内を歩くことはあるが、その時も――そして今も、ずっと特注のサングラスを掛けて生活しており、今日はそのお披露目でもあった。
『ウラベ。グラデーションミラーレンズの調子はどうだ?』
ロバート隊長が机の上で腕を組みながら僅かに微笑んでいる。
『悪くないです。角度を変えれば、すぐに戦闘対応も取れますので』
『そうか。着け心地もどうだ?』
『良い具合ですよ』
グラデーションミラーレンズ――。
強烈に降り注ぐ太陽の光から操縦士の眼を守るために開発されたサングラス。特殊コーティングをレンズ上部に行い、特に上部からの太陽光の影響を軽減させる代物だ。
だが、こいつは違う。
防ぐのは太陽光じゃなく邪眼である。
また、面白いことにコーティングが上下が逆さまだ。レンズ下部に強度な『神聖化』が施されており、上部1糎ほどには何も施されていない。
万が一――。
意図せず邪眼が暴走する可能性を考慮しなければならない。この世に絶対など無い。邪眼の発動を抑制しつつも、咄嗟に敵怪異を睨み殺さなければならない時もあるだろう。
その時、僅かに俯けば邪眼で射貫くことが出来る。スイッチのオンオフを、グラスの傾きで切り替えられるのは確かに便利である。
だが代償もある。
私の視界はいつ何時も黒茶色に染まり続けている。
『夜間は大丈夫なのか?』
奥のソファーで新聞を広げていたマイクが、面を上げながら頭を掻いた。
『大丈夫です。夜間でも見えますよ、色があるので』
その一言に空気が張り詰め、皆の表情が僅かに固まるのが簡単に見て取れた。
『俺のせいで……、すまない』
『いえ――。マイクのせいじゃありませんよ』
マイクはスパイ行為を働いていた――が、罪には問われなかった。非常に簡単な理由だ。
2重スパイ。
『マイクは家族を人質に捕られていたんでしょう? でも戦友の絆と自分の力で、その逆境を跳ね返し続けていたんですから、もっと自信を持ってください』
ソ連側の霊会組織『オリガ』から情報を詐取し『神聖同盟』へ提供しつつ、偽情報をレフチェンコに流す。公表情報に近い事実に、異なる部隊配置や研究進捗情報などのカバーストーリーを混ぜ合わせる。
スパイとしての信用は少し下がっても、極端な嘘がなければ尻尾切りされることもない。
その上で――スパイはスパイを監視する。
善意に基づく事なんて一切無い。
裏切りは裏切りを呼ぶ。3重スパイなんていう摩訶不思議な関係もあるくらいだ。多分に漏れずマイクにも相互監視のスパイがいたらしい。
だが彼の異能を前に任を果たせる訳がない。
虚実織り交ぜた報告。
監視の目から逃れられる異能。
実際に軟禁状態に置かれていた家族。
その全てがレフチェンコを安心させ、マイクが副官を殴るその時まで、彼は二重スパイの任を全うしたのだ。
――私は餌だった。
それは事実だ。
レフチェンコをおびき出し、武力による圧倒的優位から決裂と独立を宣言しつつ無力化する。
マイクの意図は結果的に上々である。赫々たる成果と言っていい。
不思議と――怒りもなければ恨みもない。
利用されたことよりも戻って来てくれた事の方が、何倍も嬉しかったからだろうか。どうせ私に大きな怪我がないよう、影ながら配慮をしてくれていたに違いない。彼はそういう男だ。
『だけど、その眼は――』
それでも申し訳なさそうな表情を崩さない。
今回の件により、日常への回帰が絶望的になったことを彼は悔やんでいるのだろう。
『気にしないでくださいマイク。私は私で、この力と上手く向き合いたいんですよ。上手く行けばこれからの戦いも楽になるし、苦労も減りますよ。ハハハ――』
『ウラベ……』
乾いた笑いは空元気。
そう思われるのも百も承知で、悲劇の主人公を演じた。私はまだまだ甘い人間であるから、ぼろっと秘密を漏らしてしまう恐れがあった。
たとえ大根役者だろうと構わない。
――サリエルの件は口外無用だ。
スティグラー博士の念押しが脳裏を過る。
この部隊にいる人間はサリエルのことを知らない。
知っているのは私と博士だけだ。
博士は明確な理由は語ってくれなかったが、認知させないことが部隊の安全に繋がる、とだけ。
あの事実――。
口外法度を貫くのは容易ではない。それでも邪眼の神秘、創造主の落ち度に仲間達が触れてしまわないように。
内心深く碇を降ろし、笑顔を貫くのだ。
その後――、いつもの日常に戻る。
最近はいつになく怪異情報が多く、バーナードの嘆きが空に揺蕩う。
報告書とメモランダムの地層は、机の両端に回廊を成すが如く。その癖に軍事機密も多く含まれており、おいそれと処分も出来ない。
この現状に隊長も苦慮しており、近々事務処理専門の――それでいて機密を守れる兵士を選抜し、別働隊として立川基地内に配置出来るよう本部に掛け合っているらしい。
是非! と皆の期待が募る中、現状の資料の惨禍に辟易する時間が流れる。
正午をまわった頃。
デービッドが「気分転換に基地の外へ行きませんか」と誘ってきた。
立川駅前や周辺の外食は気分転換になる。もっとも、基地内の方がありとあらゆるバリエーションに富む質の高い生活が保障されているる。立川基地に全てがある訳ではないが、学校、礼拝堂、診療所、劇場、ゴルフ練習場に至るまで占領軍施設や連合軍専用住宅界隈は、隔絶された天国である。
しかし、その中で生活していると敗戦国の現実を忘れてしまう。
背後にへばり付く後ろめたさは、きっと長らく消えないだろう。収奪の上に立つ現実を、身につまされる感覚を肌に焼き付けるためにも、外に出るというのは大事なことだった。
しとしと小雨の降る中、黒い蝙蝠傘が二つ並ぶ。
肌寒さを覚えながらも、外の空気を深く吸い込む。多少歩いて南側ゲートから出ようとした時のことである。
見ると――衛兵が守るゲート付近で見覚えのある男が煙草を吹かしながら佇んでいた。こっちに気づくと、蝙蝠傘片手ながら陽気に手を振ってくる。
「――デービッドとウラベの旦那!」




